ミーシャンのよんでみ亭 六道めぐり(16)
六道めぐり(16)

      〜天の原ふりさけ見れば春日なる〜
             西安いいとこ またいとこ(後編)


新年、あけましておめでとうございます。
大変御無沙汰しておりました。皆さんには御変わりありませんでしょうか。今年もよろしく御願い申し上げます。
 ※けんおじ注:ミーシャン2008-01-02の脱稿です。
 
諺に、「男子、三日遇わざれば刮目(目をコスって)してこれを見よ」とか申します。というか、昔はよくそう言ったものでしたが、さて前回の101回目のコラムよりはや3ヶ月。
とりあえず人は日々進歩するという前提で、今年はいかなるコラムになるのか、私にも判然といたしませんが、できるだけ皆さまの御期待に沿うべく鋭意努力致して参る所存ですのでどうか今一層の御期待と御寛恕をお願いして、年頭の御挨拶といたします。(なんのこっちゃ)

さて、2007年を振り返って。
清水寺の貫主さんが大書した昨年の言葉は「偽」。情けなかった一年でありました。
同い年の前総理アベちゃんが「美しい国」の理念をぶち上げ、「国家の品格」やら「女性の品格」やらいう書がベストセラーになった割には、いじましい人間の品性が拡大再生産という経済法則にやっぱり敗れていたのを確認した記念の年でありました。
食品業界のいずれも名だたる老舗がその名前の上に胡坐をかいて偽装捏造の数々。利益に対しての貪婪とモラルに対しての怠惰・・・。なんという人間の性(さが)なんでしょ。

こういうあさましい現実に直面すると筆者も心ある読者の皆さん同様、煩悩滅却し清浄無垢な仏門に入りたくなる気持ちが高まって参ります。ああ、だがしかし・・・。

いつぞや申し上げましたように、仏教者(在家信者)は「五戒」を守らねばいけませんが、その中の一つが「不邪淫戒」であります。例の“よこしまなH”はしてはならないというやつね。ですが出家になりますと別に「具足戒」という戒律を守らねばなりません。僧侶で250戒、尼僧で348戒という多さでありますが、中で最も修行の妨げになるとして戒められているのが「不淫戒」。出家は正邪を問わず一切の性的交わりは禁止なのであります。
 がしかし理性を天から授かったとはいえ、人間もまた生き物。歴史を遡ればすでに奈良時代より妻帯の破戒僧もおり、以降大寺の坊主でも隠し妻を抱えていたり密かに性行為をする者後を絶たず、江戸時代に至り記録に現れる欲望に打ち負けた坊主の数の多さに、ため息を禁じえないのもまた事実なのであります。ううう、げに哀しきは男のスケベ心・・。

江戸幕府は、寺院統制として本山末寺制度を定め各宗派の管理を本山に任せる一方、寺請(てらうけ)制度=檀家制度を設けて事実上の戸籍を作り住民の固定化と寺院経営の安定を図りましたが、この制度が現代にまで続く供養葬式仏教を請来しました。
ということで生活を保障された坊主は平和な時代の裡に何をなしたのか?
暖衣飽食すればやはり堕落して行く者が出て参ります。こっそりやってる分には大目に見られていたのですが(いつの時代もそうよね)目に余るほどのことがあれば「女犯(にょぼん)」の罪として罰せられたのです。

八代将軍吉宗が例の大岡越前に作らせた刑法集「御定書百箇条」の中に「女犯之僧御仕置之事」3ヶ条があります。
1、寺持ちの僧(住職)  遠島
2、所化僧(修行僧)   晒しの上、本寺に引渡し脱衣追放
3、密夫の僧       寺持ち、所化僧の差別なく 獄門
これでもそれ以前よりかなり寛刑化したほうで、女犯は住職・修行僧の区別なく極刑である「磔」が普通であったそうです。吉宗の時代、極刑だけに厳格に真相追求するだけのお上の行政能力を、すでに坊主の事件数がはるかに凌駕していたのじゃないでしょうか。
とはいえ、遠島でも死刑に次ぐ重い刑でしかも刑期に終わりがなく、めったにありませんでしたが将軍家の慶事や仏事による恩赦による御赦免でも女犯僧は除外されました。で大半が「鳥も通わぬ」八丈島へ送られたまま一生を過ごしたのです。
1610年〜1866年までの257年間に八丈島に流された罪人1823人のうち、僧侶221人。

ちなみに1830年の事件。大阪道頓堀の日蓮宗寺院の住職がお針として雇っていた女性が大黒(隠し妻)と判明したことから大阪の十数ヶ寺の住職・修行僧を召捕り。2ヵ月後京都に飛び火し、16寺院の住職が女犯のかどで捕えられ遠島に処せられました。すでに大黒を抱えるくらいはどこでもやっている公然の秘密でしたが、あまりに目に余るものがあったのでしょう。江戸時代も中期を過ぎると寺参りなど信心するのも娯楽の一つで、寺のほうも繁盛して財政豊かだった上に派手な噂が流れているのをお上としても聞き捨てにはできないということでついに手入れとなったわけです。
これらの住職は天台宗と浄土真宗を除く各宗派に渡りました。真宗はそもそも妻帯OKですね(僧に非ず俗に非ずって言うんですってね、じゃなんなんだ?)。
その16人の名前と相手。
  光定(59歳)― 尼(30歳)、
  檀洲(54歳)― 京女(24歳)、
  偽眞(51歳)― 町人母(45歳)町人母(41歳)
  文啓(48歳)― 町人娘(21歳)
  眞勅(45歳)― 尼(28歳)
  忍戒(43歳)― 尼(33歳)
  全正(43歳)― 町人娘(18歳)
  元雄(43歳)― 町人娘(17歳)
  茂海(42歳)― 町人母(41歳)
  仁宗(35歳)― 町人娘(20歳)
  自妙(同) ― 町人娘(同)
  首蔵(33歳)― 町人母(41歳)
  見道(同) ― 町人娘(21歳)
  春龍(30歳)― 芸者(18歳)
  宿常(29歳)― 町人娘(19歳)
  別頭(25歳)― 町人娘(17歳)と母(42歳)
うふ、三面記事的な人間模様が透けて見えて来ますが、まったく人倫の紊乱も甚だしく偽眞や別頭など、特に不届きであります。
ということで彼らは皆、八丈島送りとなりました。
一方相手方の女性はというと尼・芸者・素人の区別なく謹慎刑で済んだそうな。めでたしめでたし・・・案外に江戸時代って女性にとってはいい時代だったかもね。

たいそう長い前置きとなりましたが、前回のつづきであります。

年を跨いで申し訳ありませんが、3泊4日の中国大紀行の話でしたね。
さてここ西安はかつての唐の都、長安であります。中国の古都はみな城郭に囲まれておりましたが、この長安城のすぐ西側にかの玄宗皇帝の別宮興慶宮があり、ただいまは市民の憩う広大な公園となっております。その一角に日本から贈呈された高さ4メートルほどの石塔が立っております。阿倍仲麻呂の記念碑であります。
    
阿倍仲麻呂

正面に『阿倍仲麻呂記念碑』とあり、この写真では見えませんが裏面に百人一首にも採られた仲麻呂の歌が刻まれております。

  天の原ふりさけ見れば春日なる
      三笠の山に出でし月かも

この地にて、仲麻呂が若かりし頃遣唐使の一行に選ばれた折の送別の宴に思いを馳せて作った歌ということですが、16歳で長安を訪れて以来はや35年。はるか奈良の都を偲んで詠んだと云われており、まことに感極まるものがあったでしょう。
彼は入唐して太学に入学後、あの難関な科挙に合格し玄宗の愛顧も受け順調に出世して皇帝近侍の高級官僚にまで昇進しました。中国名「朝(晁とも)衡」(ちょうこう)。
752年、35年ぶりに日本へと帰国の途に就くも船が難破して長安へ一時彼の死が伝えられたときに李白が詠った七言絶句が、写真の右側面に彫られているものです。

   『晁卿衡を哭す』
 日本晁卿辞帝都     日本の仲麻呂卿が帝都長安を辞し大海を
 征帆一片遶蓬壷     木の葉のような船で蓬莱島(日本)目指す 
 明月不帰沈碧海     明月は帰らず碧海に沈み白雲たなびいて
 白雲愁色満蒼梧     憂いは海の彼方まで満ちている

尚、王維もこれより先、仲麻呂が帰国するに当たって『秘書晁監の日本国へ還るを送る』という詩を餞に詠んでおりますが、大海を隔てたはるか彼方の国(東夷)からやって来て刻苦勉励の末高級官僚となったこの優秀な異人について、中華の2大詩人が詩を詠んだとはすばらしいことですね。彼らによって大きく、仲麻呂は歴史上名を残したのですから。
ちなみに彼はこのときベトナムに漂着していました。といっても当時のベトナムは中国領でその後無事長安に帰還。のち官界に復帰し最後は安南節度使まで昇進しました。

ところで阿倍仲麻呂とともに717年唐に遣わされた留学生に、吉備真備・玄肪(正確には)と最近西安で墓誌が発掘され話題を呼んだ中国名『井真成』がおります。
彼の本名はたぶん葛井真成(ふじいのまなり)と目されておりますが、その墓誌には「17年間滞在し36歳で亡くなった」と書かれております。733年遣唐船がふたたび来唐し、復路吉備真備・玄肪は帰国。彼は残留して勉学に励むわけですが、志半ばにしてその1年後急病を得て寂しく亡くなるのです。遣唐船がやってくるのは、唐政府から公式に許可されていたのが二十年に一度だけ。吉備達と一緒に帰国していればその後の栄達も吉備・玄肪と同じように約束されていたにも拘わらず彼は、次回の遣唐船がやってくるまで十数年のあいだ唐に残ることを選んだに違いありませんが、急病に敢え無い最後を遂げたのでした。発見された墓誌の最後にこうあります。

  寂乃天常       空しくなる(死ぬ)のは天の常
  哀茲遠方       が、悲しいのはここがはるか遠いところ
  形既埋於異土     遺骸(むくろ)は異国の地に埋められようと
  魂庶帰於故郷     魂は故郷に帰ることを願っている

ううう、せつないですね〜。どれだけ心侘しくまた無念であったことか・・・。

一方帰国した吉備真備と玄肪は大唐留学帰りということで大いに箔がついてトントン拍子に出世します。吉備は晩年には正2位、右大臣まで登りつめました。
かたや玄肪。僧である彼は唐より5000余巻の仏教典を持ち帰り聖武天皇の覚えもめでたく吉備とともに権勢を誇りますが、藤原一族のホープ藤原広嗣の乱を平定したのち権力闘争に敗れ大宰府に左遷され、翌年死亡。
大宰府政庁跡近く観世音寺の裏手には彼の墓がちんまりと立っておりました。
ああ、人の世の有為転変。せつないですね〜。
・・・という様なことを新年早々申し上げるのも如何かとは存じましたが、まあ御容赦ください。斯様な性格はもう直らないということで、どうかひとつ。

ということで今回は坊主に始まり坊主で終わりました。いささか長かったでしょうか。
では、来る5日の同窓会でお会いしましょう。
                         亭主敬白

兼定興産は、廃消火剤の肥料化を実用化しました。
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ミーシャンのよんでみ亭 六道めぐり(15)
六道めぐり (15)
   〜虞や虞や 若(なんじ)を奈何せん〜
           西安いいとこまたいとこ(前編)


はてさて8月に入りましたが皆さまにはいかがお過ごしでしょうか。
 ※けんおじ注:ミーシャン2007-08-15の脱稿です。

まず、朗報であります。
去る7月18日、隣村のA氏がとうとう戻って参りました。
じつに4ヶ月半ぶりの帰還であります。長かったですね〜。
彼は入院中より口髭を生やし、スリムな体型に戻りかつて小郡で経営していた喫茶店時代の頃のような風貌になって、元気に『○○:お店』主人として復帰されました。いやもう祝着至極、まことにおめでとうございます。 

それにつけても、やはり健康が一番ですね。
ということで元気で遊べるうちに遊ぼうと思い立ち、ダンボール餃子事件で大騒ぎの中、中国は花の都長安、只今の西安へ行って参りました。

着いたのが夜9時。グッドタイミングなことに晩御飯は餃子宴ということで、いろんな餃子(アヒルの形をしたアヒル肉のギョーザとか)のオンパレード。なんでも餃子は西安名物だとか。おいしく頂きました、紹興酒で流し込みながら。
西安1

西安といえば、西周・秦・漢・隋・唐の都があったところであります。
郊外には、バスの車窓から見ても小さな土盛りから結構な大きさの小山まで点々とあり、これがすべて墳墓だそうな。大きなものは勿論古代の皇族の陵墓ですべて盗掘済みの上、少しずつ掘り崩され庶民の建材として再利用されておりました。

でお定まりの、中国古代最大(ということは世界最大ね)の墓たる始皇帝陵の陪葬坑に作った兵馬俑坑博物館を見学。6000体やら8000体やら(どっちでもいいけど)ガイド本の説明が一定していない陶俑の行列にやはり感動いたしましたが、世界中から押し寄せてきた観光客の混雑にもビックリ。おまけに暑いわ(37度)ホコリっぽいわで酸欠になりそうでした。
西安2
西安3

帰りに立ち寄った始皇帝陵のほうは何にもないただの小山でしたが、しっかり入場料取られたので頂上まで登って参りました。上も何にもなかったけど。
西安4
            
この始皇帝陵、まだ政府も発掘をしてないという公式発表(ということで未発掘。保存技術が及ばない由)なんですが、本当でしょうかね?秦が滅んで2200年も経ってるし、第一「史記」には劉邦とともに秦を滅ぼした項羽が将兵30万人を使い30日かけて盗掘したと書かれております。(もっとも中国人の話はスケールがデカ過ぎて今ひとつピンときません。この始皇帝陵にしろ罪人70万人を動員して作らせたそうですし、項羽が咸陽(西安郊外で空港がある)の宮室を焼き討ちにしたらその火が3月の間消えなかったというから3という数も好きなんでしょうね、例の白髪三千丈という話もあるし)まあ、永遠に未発掘のほうがロマンがあってよろしいかとも存じます、我が朝の仁徳天皇陵のごとく。
項羽といえば降伏した秦の将兵20万人!を穴埋めした冷酷漢ですが、また太っ腹で詩人でもありました。垓下の戦いで劉邦に破れ、四面楚歌のなか項羽はこう歌いましたね。これも高校の漢文の授業で習いましたな。
   力 山を抜き  気は世を蓋(おお)う
   時 利あらず  騅(すい)逝(ゆ)かず
   騅逝かざるを奈何(いかん)すべき
   虞や虞や 若(なんじ)を奈何せん
破滅を悟った男の寵姫虞美人に対する切々たる思いが伝わって参ります。時に紀元前202年。我が朝はいまだ弥生時代であり日本人は文身(いれずみ)しておったそうな。
ちなみに虞美人草はヒナゲシなんですってね。

とかなんとか中国とわが日本をあわせ考えつつ旅は続いていくのでありました。
(つづく)

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ミーシャンのよんでみ亭 六道めぐり(14)
六道めぐり(14)
    100回記念特別編


君子固(もと)より窮す。小人は窮すればここに濫す。
            (『論語』衛霊公編)

今年も早いものでもう6月となりました。
毎日暑い日が続きますが、皆さんお元気にお過ごしでしょうか。
 ※けんおじ注:ミーシャン2007-06-12の脱稿です。

さて突然ですが、このコラムもお陰さまで100回目と相成りました。
これも偏に読者の皆さま、ならびにこのHPの管理者たる○○君の御好意の賜物と、まことに感謝感激この上もない次第であります。

それにしてもこんなに長く続くとは私も思ってもみませんでした。ですが(というか)ですので、さすがに東海道シリーズを終えてのちネタ探しに苦労しております。おかげで記念すべき今回もとうとう月初めの締め切りに間に合わず関係者各位にご迷惑をおかけしました。ごめんね。

まずは御礼とお詫びを申し上げ、100回目をぼちぼちと始めるとしましょう。

隣村のA氏が青天の霹靂たる急病に倒れすでに3ヶ月になります。
ああもうそんなになるのね―と思われますが、本人の心がけがいいのと御家族の篤い看病と、加うるに(たぶん)友人一同の励ましにより経過は良好で、病院内をリハビリがてら歩き回るほど快復されました。このままの調子で行くと早ければあと1ヶ月余りで退院できるかも、と本人の弁(6/6現在)。んん、結構元気なんで病室でかなり退屈みたいでありました。

彼の場合、病因は開業の疲れやストレスかと思われますが、直截的な原因は飲酒のようにも想像できる所でして、前回のコラムでは脳天気に酒を褒めておりましたのですが、思い起こせば本来酒飲みのヘキのなかった彼がわたくしとの積年の付き合いによって結構な“呑ンベ”に成長したということは否定できない事実でありまして、今回の緊急入院の遠因はその辺にあるんじゃなかろうかと、わたくし責任を痛感しておるところであります。

てなわけで忸怩たる思いで居りましたわたくしでありましたが、とうとう日頃の不摂生が祟ったのか、はたまたどこまでも友達付き合いがいいのでありましょうか、10日ほど前からどうにも咳が止まらず、近くの病院へ駆け込みました。
で、レントゲン後の医者の見立ては「肺気腫&喘息」ですと。植木等の病を例えに出して喫煙を脅かされた次第。1週間の処方を受けて帰りましたが、その1週間が過ぎても咳き込みは止らず、再び病院へ。
2度目はCTスキャンして診察。「ありゃ、肺炎だったみたいですね。」だと。
「肺ガンではありません。」だと、付け足すようにおっしゃった。
慰めてくれてるのね、ガンじゃなくってヤレヤレって・・・「バカヤロ〜!!!」
ということで山のように薬をもらって帰って参りました。いまだ咳はとれず只今静養中であります。

ときは紀元前497年、中国は春秋時代の真っ只中であります。
ただいまの山東省にあった魯の国の大司空(法務大臣)であった孔子は、魯が孔子による政治刷新で国力が強大になるのを恐れた隣国斉の謀略(80人の美女を魯に送り込む!)によって君主の定公らが骨抜きになり政治が疎かになったことに絶望し、この年弟子らを連れ仕官を求めて旅に出ました。孔子55歳であります。
それより衛、宋、陳と遍歴いたしますが前489年、楚の昭王の開明ぶりを聞いた孔子は楚を目指します。ところが国境付近で暴徒達に包囲され動きが取れなくなりました。陳は呉に侵略されてただでさえ飢饉の上、一行の食料も底を尽き、飢えと疲れで病人も出てきました。一方「史記」に拠れば、大国の楚が孔子を招聘していることに危機感を抱いた小国の陳と蔡が軍隊を出して孔子一行を包囲した、とあります。
なにしろ孔子の生涯の中でも最も危機的状況でありました。

「陳に在りて糧を絶つ。従者病んで能(よ)く興(た)つことなし。
子路慍(いか)って見(まみ)えて曰く、君子も亦(また)窮すること有る乎(か)。
子曰く、君子固より窮す。小人窮すれば、斯(ここ)に濫す。」

孔子に付き従ってきた弟子達も飢え病み疲れて立ちあがることもできなくなった。そのとき気が短かい子路は我慢できず孔子に詰問したのである。
「(善意を以ってせば善意で報いられるという孔子の日頃の教えに反し)君子でも窮するときがあるのですか?」
「もちろん君子も窮するときはあるのだよ。ただ違うのは、小人は自暴自棄になって道を外してしまうのだ。」

結局孔子一行はなんとかこの危機を脱出いたしますが、この衛霊公編には他に次のような名言もあります。
 
 「子曰く、人、遠き慮り無ければ、必ず近き憂い有り。」
    ・・・先のことまで考えない人に限って、クヨクヨと身近な心配をするものだ。

 「子曰く、已(や)んぬるかな、吾れ未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざる也。」
    ・・・へへへ。同感です。

っとまあ、君子を目指すとまではいきませんが、“窮すれども濫せず”ようにこれからの人生を送りたいものですね。

――という締めの言葉で100回記念編を格調高く終わりたかったのですが、そもそもこのコラムのタイトルは「古文書を読む」というものだったような気がしますので、オマケに江戸時代のものを軽く載せてオシマイに致します。あのよろし。

口すい1

〜口どりの図〜  くちどりの仕やうハ男女ともニ

上の口びるをのバしてわが上歯をうハ口ひるのうらへ付てむかふの舌をわが舌にまきてずいぶん歯のさハらぬやうにすふべし尤(も)まらのねぶりやうも右に同じ

ううう、そうだったのねとか言ってこんなん読んで勉強してた奴はきっとモテなかったんでしょうな。

口すい2
    
 ・・・わたしハほんとうに腹が立ちましたハ。
 それよりか芦久保庵とおたまさんが囲ひの内でなんして居たとハ。
 どんな事をして居たのだか。話して聞かせなどいハれてふつと赤らむ顔。
 
少し小声にぐじぐじと。つひ腹立ちまぎれにそんな事を申しましたのでございます。どんなことをいたしてをつたかぞんじません。
それでもお前お見じやァないか。ハイ。それ〇〇ないのかへ。はい。
そんなら大方こうしていたのじやァないかとその花が手をしつかりにぎり引き寄せようとするするときに往きあふ船と船との小べりどんト当たれバその花ハはつとびつくりそのままに花流(かりゅう)がそばへ寄り〇を。背なへ手をうけ抱きすくめ女の顔へ顔おしあて頬のあたりをなめまハせば女ハうれしさはずかしさ。こハごハ少し舌を出だすを・・・(つづく)

ということで今回は無事終了です。
次回からもよろしくお願い申し上げます。
                           亭主敬白

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ミーシャンのよんでみ亭 六道めぐり(13)
明けましておめでとうございます。
本年もけんおじブログをよろしくお願いいたします。
本年の第一回目は、格調高くミーシャンの読んでみ亭で始めます。
ただ今回は格調高い浮世絵はありません。ご免なさい。

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六道めぐり(13)

 しずやしず しづのをだまき くりかえし
      昔を今になすよしもがな  (静御前)

さて春の過ぎ行くのは早いものでもう5月に入りましたが、皆さんには如何お過ごしのことでしょうか。
 ※けんおじ注:ミーシャン2007-05-02の脱稿です。

新年度を迎え、同級生各位のご家庭も子供さんの巣立ちなど身の回りの環境が激変された方もいらっしゃるかと存じます。

手前ごとで恐縮ですが筆者の子供達も上は新社会人、下は新入生としてそれぞれ親元から離れて行きまして、まあ家の中の風通しのよくなったこと!家の中さっぱりとガランドウになってしまいました。

ちょっと前までは就職祝いや合格祝いで家族揃って乾杯の連続でしたのに、やっと落ち着いたと思ったら辺りはやけに静かで・・・うう、すごく寂しいわ、てな感じであります。

友人が教えてくれた所によるとこの感覚は“空の巣症候群”というのだそうで、そういう親は喪失感というか空白感から思わず知らず不良(または一層不良)になるのだそうな。

「社会に貢献すべき分別盛りのいい大人が、豈そんなことでよからん哉?」
「うんにゃ、いかん。世のため人のため、なーもしとらんじゃろが。」と内なる声は確かに聞こえていても、さもあらばあれ昔を今になすよしもがな(昔のあの頃に戻れたらなァ)などと夜毎盃を重ねている昨今でございますが、流石にここんとこ酒の、功徳より害毒のほうがどうも甚大じゃないかとつらつら思う訳であります。

酒の上での舌禍もあれば痴話もありそれだけでも百害あるのに、夕方早々と頭の中が混濁するから一日経つのがなんとまァ早いこと。このまま行けば文字通り“酔生夢死”の人生一巻の終わり。こりゃ、いかんでしょ。

で、いにしえの名僧にそこんとこ当たってみたところ、
法然さんは「酒を飲むのは罪にて候か?」と問われたとき「まことには飲むべくもなけれど、この世のならひにて」と答え、日蓮さんは「ただ女房と酒打ち飲みて、南無妙法蓮華経と唱へ給へ」と教えたとか。

わたくし浄土宗ですので「南無阿弥陀仏」と唱えながら女房と酒を打ち飲めばいいわけね。
ついでに話は奈良時代に遡ります。

古代からの名族大伴氏の氏の長者(うじのちょうじゃ)旅人は太宰師(長官)として九州へくだって来ます。2階級特進の出世とはいえ成り上がりの藤原氏によって体よく都を追い払われたと旅人さんも思っていたのでしょう、都を遠く離れ日々鬱々として楽しめなかったようですが、3〜4年間の太宰府在任中に作った歌の中に『酒を賛(ほ)むる歌13首』があります。

 験(しるし)なき 物をおもはずは 一杯(ひとつき)の
           濁れる酒を 飲むべくあるらし

「言っても詮のないことを思うくらいなら一杯の濁り酒を飲んだほうがマシだ」くらいの意味でしょうか。わたくしもまったく同感でありますが、どこか投げやりですね。

 賢(さか)しみと 物いふよりは 酒飲みて 
   酔(ゑい)泣きするし まさりたるらし

 黙然(もだ)をりて 賢しらするは 酒飲みて
     酔泣きするに なほ若(し)かずけり

「賢(かしこ)ぶってエラソーにするよりは酒飲んで酔っ払う方がナンボいいか」これまた同感ですが、旅人さんの酔癖はどうも泣き上戸だったと推測されます。

 あな醜(みにく) 賢しらをすと 酒飲まぬ
      人をよく見れば 猿にかも似る 

うう、ここまで言うか。

旅人さん賢しらな下戸の人から「酒飲みめ」とバカにされ、よっぽど腹に据えかねたか、或いは長官といっても生え抜きの地役人達との仲もしっくりいってなかったかも知れませんね。

上の4首はいささかスネた物言いの響きがありますが、そこは武門の家とはいえ当代一流の教養人。こんな酒に対する賛歌も詠んでおります。

 古(いにしえ)の 七(ななつ)の賢しき 人どもも
      欲(ほ)りせしものは 酒にしあるらし

ご存知、中国は魏晋時代(奈良時代から遡ること500年前)竹林で酒を飲み琴を弾いて清談を語り合った七賢人の逸話を踏まえておりますが、都を席巻する藤原一族の横暴さを思い、我が身の清廉さに対する矜持と無念さがが感じられますね。かくてヤケになるのもムベなるかな・・・。

 なかなかに 人とあらずば 酒壷に
   成りにてしかも 酒に染みなむ

いくらなんでもわたくしここまではまだ至っておりませんが、気持ちは十分わかるかと。

ですが彼が耽溺とまで言われてもおかしくないほど酒を愛したのも、追われるように大宰府へ赴任して間もなく都に残して来た妻が亡くなったのが大きな原因でしょう。
その凶報が届いたときに詠んだ歌。

 世の中は 空しきものと知る時し
  いよよますます 悲しかりけり

ううう、その悲しさはいかばかりであったことでしょう。
『酒を賛むる歌』には、また次のように詠まれております。

 生者(いけるもの) つひにも死ぬる ものにあれば
      今(こ)の世なる間(ま)は 楽しくあらな

 今(こ)の世にし 楽しくあらば 来む生(よ)には
         虫にも鳥にも われはなりなむ  

「人の命というものは儚いものだ。さあ、生ある間に楽しもうじゃないか。酒を飲み今このときを楽しめれば、死んで来世でたとえ畜生道に落ちようとも悔いはない。さあ、大いに飲もう」

まったく以ってその通りであります。

 価(あたい)無き 宝といふも 一杯(ひとつき)の
        濁れる酒に あに益(ま)さめやも

ということでわたくし覚醒いたしました。
春宵一刻価千金、今宵もまた迷い無くお酒を頂くことにしましょう。

 時はいま あめがしたしる さつきかな

南無阿弥陀仏。
                       亭主敬白

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ミーシャンの東海道五十三次めぐり(67)
京都
〜六道めぐり その12〜


花散りて木間(このま)の寺と成りにけり (蕪村)

知らぬうちにあっという間に満開になった桜の、無粋な春の嵐による酷い散らされように人生のはかなさを噛みしめる今日この頃、皆さまには如何お過ごしでしょうか。
※けんおじ注:ミーシャン2007-04-09の脱稿です。

せわしない日常の寸隙を縫って、はらはらと花散る下で往く春を惜しみつつドンチャン騒ぎというのはホンナコツよかですもんね。
わたしも毎年小頭町公園に行っておりますが今年も去る1日花曇のもと早速出かけましたが、今にも降り出しそうでしたので早々と切り上げてまいった次第です。まァ雨に濡れしずくを帯びた花もしっとりとした風情があってよろしいのですけども・・。でへ。

桜狩美人の腹や滅却す (同)

“花狂い”とか申して花に魅せられた類の人種がおります。
上記の句は、その花狂いの人が桜狩ののち (または最中) の逢瀬で美人のからだによって、桜の精の蠱惑(こわく)を退けてもらったと考えるか、はたまた字づらどおり、桜を愛でるうちに“美人の腹”に対しての煩悩が霧散していったのか、なにしろえらく艶な句であります。
しかし『腹』という言葉を持ってくるのはすごいですね〜。桜の花弁から美人の腹を思い浮かべたのか、単に花と腹の語呂合わせかしらん。
“滅却”ってのはもちろん武田家滅亡の折、信長軍に焼き打ちにあった甲斐の恵林寺とともに炎に包まれながら快川和尚が遺した喝の一節「心頭滅却すれば火もまた涼し。」を連想させますね。
ともあれ花に狂うのも美人に狂うのも煩悩の致すところでありまして。
まことに歳を重ねるほどに煩悩は深まっていくようでありまして・・。で〜。

では風流はこのくらいにしまして。いざ京の都へ。

「名にしあふ京女(じょろう)とて日本六十余国のうち女の品は此国を以って最第一とす。
風土によりて其のきしつ(気質)ゑん(艶)にやさしく、美顔艶麗にしてきめこまかく、つややかにしてしら玉のごとし。
是にしたがひ玉門も又上開多く、玉縁(いんもんのふち)やわらかく羽二重にさわるごとくすべてはだ合(あい)すべすべとしてきよらなる事、たとふるにものなし。殊に陰情深くして閨中のもてなし余国の女にたぐふべからず。異国は及ばず、我朝に男と生まれたらんもの一度(ひとたび)なりとも京女郎の玉門の味を知らずんばあるべからず。
されば年老いぬうち東海道を修行し、其の国々の味を心み(試み)、上京して京女の陰中に気をやりて男の本意をとげ玉ふべし。」  (『旅枕五十三次』結びの言葉)

「知らずんばあるべからず」などと言われたからにゃあ、いくら生真面目な私でも年老いぬうちに修行をば・・と思い京都へと出かけて参りました。

京

3月末の京都は寒うございました。
で、円山公園や高台寺の枝垂桜でさへ未だツボミでありました。ただ平野神社の『魁桜』だけが見ごろだということでイソイソと出かけた次第。金曜の夕方五時ということで見物客もちらほら。
ここの裏手には緋毛氈を敷いた縁台がずらりと並び、すでに花見客目当ての臨戦態勢が整っておりましたのでそのうちの一台に腰をおろし、オデンに熱燗。
傍にすっくと立つ桜はまだ一輪も花開いちゃいませんでしたが、暮れなずんでいく境内に燈るボンボリに薄っすらと樹影が浮かび上がり、熱燗の酔いが廻るにつれいよいよ陶然。
これでそばに美人がいれば・・なんてことは些かも思わず、少々早い京の花見を堪能したのでありました。(で次の日の夜もここで花見。スキね〜)

翌日、宿の界隈を早朝散歩いたしました。
コーヒーでも飲みたいなと思いマックやミスドを探しましたがなんせ早朝7時前で未だ開店前。
と、50メートル先に喫茶ナポリの看板を発見。うう、名前も、よく見れば構えも古式豊かね。
おずおずと店に近づくとドアに貼った紙にモーニングサービス/コーヒー200円(6:30〜10:00)とあるではありませんか。すげ〜ェ6時半から開いてるのね。まァ値段が値段だし、と意を決しておずおずと店内に入りました。
・・・んん、そこは。
紫煙たなびくその雰囲気は私が知る限り35年前と変わらない紛れもない「喫茶店」。ただひとつあの頃と違うのは、満席のボックスに居並ぶ客は御年配の紳士淑女の方々。
嬉しいことに半数の方が御喫煙。まさに大人の社交場でありました。時に土曜の朝6時50分。
でその翌日、よもや日曜は6時半から営業はしてないだろうと思いまたも散歩の途中店を覗いたところ、見事に営業中。迷わずドアを開けた私でありました。
よかにぃあ〜ァ。京都って。
ちなみにこの店、千本中立売交差点角すぐ近くにあります。

【 島原 】
島原
   
 *大門口 見かえりのやなぎの図*

 「都随一の遊所にて太夫(たいふ)の玉門しぼミつき
  薄毛のうちにハじやこうを焚きこめいとも尊とき
  内ももなればたとへ千金のきんたまはりかたの
  美悪(よしあし)にいろをしま原の名にめでてよし」

  書き入れ/こちよむきんかい
        なんじやいなァ
    
      /どうなとさんせ
        お前のじゆうになろわいな

ということでめでたく『東海道五十三次膝寿里日記』もおしまいとなりました。今まで楽しんでいただけましたでしょうか。
次回より新企画としまして、何かをどうにかしたいと思っておりますのでまた宜しく御期待くださいね。
では、●●主人の一日も早いカムバックをお祈りしつつ今回これまで。

                        亭主敬伯

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ミーシャンのよんでみ亭 東海道五十三次めぐり(66)
大津から 京師へ 3里
   〜六道めぐり その11〜

さあて天候不順のせいで桜の開花日がわからなくなって参りました。
妙に温かったり一転寒くなったりで風邪をひきやすい今日この頃、みなさまにはいかがお過ごしでしょうか。
(けんおじ注:ミーシャン2007-03-22の脱稿です。)

思い返せば3年前。
平成16年7月2日に初めて江戸は日本橋を旅立ってより東海道をトボトボと京へと上ってまいりましたが、この旅もいよいよ終着点、京は三条大橋でめでたく“あがり”という運びになりました。(ただし広重版)

これも偏に読者の皆さま、ならびに管理人様の御寛容のお陰にて筆者まことに感涙にむせ返っております次第でありますが、さて3年前に何をしていたかとなると記憶はすでに霧の中、おそらくは4年前と同じように過ごしておったと思われ、では来年の今頃は如何?と思えどもきっと今年と同じように過ごしておる・・という詮方ない日常にあって、月に2回ずつ性懲りもせずショーもないコラムを書いて参りました。いやはや文字通り軟派で文弱な筆者にここまでお付き合い頂きまことにありがとうございます。

さて、このシリーズで途中までご紹介していました『東海道中膝栗毛』では、弥次さん喜多さん一行は東海道四日市宿の追分立場より伊勢街道に入っております。
伊勢街道の宿場は大神宮に向って順に、神戸(かんべ=鈴鹿市内)・白子・上野・津・雲津(津市雲出)・松坂・小俣(おばた)・山田(伊勢市)。
この山田に伊勢神宮がありヤジさんキタさんもめでたく参詣しておりますが、この町には古市(関の山)という郭街があって大いに繁盛し、江戸の吉原、大阪新町、京都の島原、長崎丸山とともに江戸時代屈指の遊所であったそうな。それがまた外宮にお参りしてのち内宮に向う道筋にあったというけしからん話で、当然ヤジさんキタさんもドンチャン騒ぎをやらかしております(詳しい描写はないけど)。大体大神宮参詣の方が“付けたし”という輩が多かったというのもこれまた歴史の真実でありました。

    伊勢参り大神宮へも一寸寄り (古川柳)

じゃあちょっとその内の一軒に登楼してみましょう。

「おやま(女郎のこと)残らず出て次第よくならぶ。大方十五六人・二十人ばかり也。壱人毎に客へ盃をさし、そのうちに弐人三味線をならし、衆妓皆同音に唄ふ。
その妓のなかにて客の目にとまりし妓を相方と定め、その定まりし妓はハット立ちて客の傍らにすはる也。残りし妓は猶席に有りて三弦をひきうたひて興を添える。その内に追々客あれば、妓は五六人別れてその客をもてなす也。
閨房に入るの時にいたりて衆妓皆退散す。それ迄は衆妓悉 (ことごと) く席上にありてほしゐままに貪り食ふて遊ぶ事也。これ古市の一風といふべし。」 (滝沢馬琴『羇旅漫録』より)

あは、往時が偲ばれますね。基本システム自体は今も変わらないようですが(と聞き及んでいます)。
一方お伊勢参りへと出かけた亭主の留守を預かる女房はというと、

    ヌッと入れまず抜いてみる伊勢の留守

伊勢参りの留守に間男をすると、バチがあたって抜けなくなるという俗信があったのでとりあえず用心したものと見えます。多少負い目もあったのでしょうけど。
そんな事も知らずに旅から帰った亭主、

    留守中を知らぬがホトケ礼を言い

間男は隣に住んでいた男だったのでしょうか。
これで丸く収まったならこれでもいいかァ。というのも、最中に亭主が帰って鉢合わせ、てなことになると、

    間男と亭主抜き身と抜き身なり

亭主の方は本物の刃物を持ち出すという景であります。まあ、なにしろ不謹慎なお話で。

こうして参宮を終え古市で歓楽を尽くしたヤジキタ2人組は「足曳(あしひき)のやまと路を廻り、青丹(あおに)よし奈良街道を経て山城の宇治にかかり」いよいよ京へ入ります。

【京師】〜三条大橋〜
京都2

江戸日本橋より126里6丁1間(496km)、徒歩でおよそ2週間かけ、ようやっとここ京都の三条大橋に到着いたしました。背景の山は東山三十六峯であります。すなわち都側から東を望む景であります。山腹には清水寺が見えますね。

ということで歌川広重の『東海道五十三次は』これにておしまいでありますが、『東海道膝寿里日記』は次回【島原】まで足を延ばしますのでお見のがしなく。

京都1
    
  *花のミやこのいろかを志たひ
      あづま男のふたりづれ*

 「大内はいろどころなればくわん位といへども
  ミな淫事をかたどる
  まづ男根(へのこ)ハ大なごんがよし陰門の穴ハ中なごんを尊ぶ
  陰毛ハ少々くじるに四ほんハあくどし
  交合(とぼし)ハ一夜に三位(さんみ)にかぎる
 淫水ハだらだらと参内(さんだい)
  五位六位の人といへども小便ハじょろじょろ」

  書き入れ/いもが陰門(おんこと)ハあしひきの
       山よりふくれているさかひひさかたの
       そらわれがよう見えわたりていはんいはん

      /うばたまのくろまらよりもよいじやあろが
       あまとぶかりたかがいつそ
       あぢよふおますわいなア

という奇怪な、ヤンゴトなき人の京(みやこ)言葉でありました。

では“○△◎(友人の店の名前です。)”主人の一日も早い復帰を祈りつつ今回はこれにておしまい。またね。                      

亭主敬白


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ミーシャンのよんでみ亭 東海道五十三次めぐり(65)  
草津から 大津へ 3里半6丁
      〜六道めぐり その10〜

いやに陽気なお天気で弥生3月を迎えましたが、みなさんにはお変わりありませんでしょうか。
(※けんおじ注:ミーシャン2007-02-17の脱稿です。)

さてかの浦島さん、楽しみも尽き果てて・・・
     「かえりてみればいえもなし
      これはふしぎとたまてばこ
      ひらけばしろきけむがたち
      しらがのじじいになりにけり」

で、古川柳。

      帰り来て 箱を開けたが 百年目

真っ白に なって浦島 くやしがり
という具合に、当方も白髪三千丈の身であることはみなさん先刻ご承知かと存じます。でへ。
      
      宿昔(しゅくせき) 青雲の志
      蹉跎(さた)たり 白髪の年
      誰か知らん 明鏡の裏(うち)
      形影 自(おのずか)ら相憐(あわれ)まんとは  
(張九齢『鏡に照らして白髪を見る』)

ううう、突然こうなったわけじゃないけど、時々鏡を見て愕然となりますわな。
あああ、わたしの青雲のココロザシはどこへ行ったのォ〜・・

      白髪同志 春ををしむも ばからしや (一茶)

そう言はんとお付き合いくださいね、同志諸君!
ではありますが、“欲”はいくつ歳を重ねようがお構いなく深くもなるようで、

      思ふこと一つかなへばまた二つ
          三つ四つ五つむづかしの世や (後水尾天皇御製)

ときに罪深くなるのは世の常、

  「自分の子供より隣人の息子や娘のほうがよいと考えている男は
   めったにいないが、
   隣人の妻ということになると話は別だ。」 (プレンティス)

はたまた、
   遠くのていしゅより近くの他人なり (古川柳)

次の箴言は、判るような判らんような、とりあえずウラヤマシイような・・

  「恋人は一びんの酒であり、妻は一つの酒びんである。」
                 (ボードレール)

ですが昨今は“妻”は“夫”に入れ替え可能でありますな。これを男女機会均等とかいうのでして。
うう、わたしも日本酒の一升ビンかもね。

さて東海道であります。
 【大津】〜走井(はしりい)茶店〜
大津1

瀬田の大橋を渡り大津宿を過ぎて逢坂峠を越えれば間もなく山城の国へ入りますが、その国境にあった立場大谷の茶店を描いております。滾々と水が湧き出ていますね。
京まであと僅か3里であります。
大津2
   
 * 長いたびぢのうきかんなんも
         きミにあふつを楽しミに *

  「此宿の人至つて大男根なり
   男根大きければ一義にのぞみ唾(つ)をつけねば
   陰門へ這入らず 
   大まらへつをつけるといふことより大つといふとハ
   余りにくるしきせつにあらずや」

   書き入れ/ソレどうだ
        くびがいごくか
        なにとうのこつちァねへ
        おれのへのこサ

       /ばうやもつといごかしな
        なァにあたまばかりじやァない
        こしのはうも

ということで今回はオシマイであります。
次回で広重の五十三次は『あがり』となりますが、日記の方はもう一回ありますよってお楽しみに。
ではまた。
                    亭主敬白

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ミーシャンのよんでみ亭 東海道五十三次めぐり(64)  
石部から 草津へ 2里半7丁
 〜六道めぐり その9〜

いま2月なの・・・?
  ※けんおじ注:ミーシャン2007-02-17の脱稿です。
あまりの暖かさに、これはもう超異常気象と言うしかない状況になってまいりました。
このまま行けば近々確実に人類は滅ぶな、という予感がしてならない今日この頃、皆さまには益々お元気でご活躍のことと存じ上げます。

  年月をいかで我が身におくりけむ
        昨日の人も今日はなき世に  (西行)

円安でとくに輸出関連企業が最高益を上げただの、好景気が最長記録を更新中だの、来年の新卒は超売り手市場だの、我が国の産業界はなかなか好調のようですが、どうなんでしょうか。少なくとも地方経済は沈滞したまま景気がいい話なぞ滅多に聞きません。どころか暗い話ばかり耳に入ってくるのは、エヘヘ、類は友を呼ぶってやつでしょうかね。そうして思わず知らず、もののあわれを感じる方へ傾いてしまうのは私の性分でありましょうか。はたまたリビドー(フロイトのいう性的エネルギーじゃなく、ユングの心的なそれ=生命力のことです)の低下なのでしょうか。
・・では盛り上がりませんので、ここはひとつ酒でも飲んでパーッと浮かれてみましょうか、「雉も飲まずば浮かれまい」ってね。

というわけにもいきませんので、フロイトの方のリビド−を幾分なりと高めるべく毎度お馴染みの『膝寿里日記』からお送りします。

〜石部〜
「右に横田川の流れあり。むかで山見ゆる。昔、俵藤太(たわらのとうだ*)勢多のはしにて龍女をとらえ交合(トボ)さんとしけるに、藤太が一物世の常ならねば雁くび陰門の蓋となりいかに推せどもさらに這入らず。ココにおいて鈴ぐちから雁のまわりへ唾をなすりふたたび陰門へあてがつて一推しおせばズブズブと何の苦もなく這入りしと。世の人これお聞きあやまり矢の根へ唾をはきかけて百足(むかで)を射しと云いつたふ。梅ノ木『和中散*』あり。手孕(てはらみ)村、此の所の人他国へいきしとき女房を人にあづけたるに、その人ことに律儀にてあづかり置きたるかの女を他人のトボさんことを恐れ、毎夜おのれが手を以って女の陰門に蓋して寝(いね)しと。女は乗り気に感じてやツイに孕めることあつて程なく一箇(いっこ)の手を産みしと。いともあやしき説なれど聞けるまにまにこれをしるす。目川に名物田楽あり。くらふべし」
 *俵藤太・・・平安中期の武将で平将門を討ち取った藤原秀郷のこと。
        弓の名手で瀬田の唐橋に巣くう大蛇(じつは龍女)に
        懇願され大百足を射殺したという伝説あり。
 *和中散・・・道中薬。本舗は茶屋本陣も兼業していた。

相変わらずお下品で、すごいこじつけの道中案内であります。「いともあやしき説なれど聞けるまにまにこれをしるす」なんて、いーかげんで微苦笑。でも歴史の勉強にはなりますわな。ついでに、
〜草津〜
 「名物うばが餅あり。矢ばせを乗れば大津まで湖上1里半余。野ぢの玉川、野路の里この先の茶屋女陰門湖(うみ)にあやかつてその穴いたつて大(おお)いなり。人大開(たいかい)の茶屋とよぶ。五軒茶屋このへんより大津までの間をまらの入江又まのの入江ともいふ。鳥い川村これより石山へ18町。この道ほたる多し。ほたる狩りはいろごとをするにたよりよし。石山の観音は紫式部が源氏物語がたりを作りしとこにて種々(さまざま)の宝物多しといへどもこれを略す。膳所(ぜぜ)いにしへの粟津なり。義仲、兼平、はせを*の墓あり。この辺すべて風景よし。湖上18里そのかたち陰門のごとし。されど陰門(びり)のうみといひては聞こえ悪きとて琵琶(びわ)のうみとよぶ。このわたり旧跡多けれども男根(まら)の大筋のみをしるして陰嚢(きんたま)の用なき所ははぶきてのせず。」
 *義仲・兼平・・・木曾義仲とその配下の今井兼平のこと。頼朝軍に
          攻められ粟津で自害した。
 *はせを・・・松尾芭蕉であります。

 いや〜、頭がパーになりそうですね。
尚、上の*注にある3人の墓がある義仲寺は次回ご紹介する大津の手前にあります。
ついでに記せばこの寺の無名庵にある句碑。

 木曾殿と背中合わせの寒さ哉   (又玄)

芭蕉は遺言でここに葬られたので、古川柳。

 風流と武勇背中合わせなり

ああ、だがしかしなかなか気分が盛り上がってまいりませんね。うう、また沈みそう。
 
 人生五十年化天のうちをくらぶれば夢幻のごとくなり

あ、このフレーズは以前使いましたね。信長で有名な「敦盛」の一節。
ちなみに化天(げてん)は、6道の内の『天』の1種である化楽天の略で、そこに住む天人は8000年の寿命を保つそうです。その寿命の長さに比べたら50年なんて・・・。信長は49歳で死んだけど。
庶民は、というと、

 いいかげん損得もなし五十年  (古川柳)

で、いまのわれらと同じ52歳で死んだ井原西鶴の辞世。

 浮世の月見すごしてける末二年

さてわたしら末何年まで、月を見られるものやら・・・。

 【草津】〜名物立場(たてば)〜
草津1

先ほどの道中案内でも出ましたが、草津を過ぎた立場(街道筋の休憩所)にあった名物「姥ヶ餅」を商う茶屋を描いており、看板に「うばもちや」とあります。相当繁盛しておりますね。初めは「乳母ヶ餅」といったそうですが。
草津2
    
 * 人のわきがをとやかういふが
    本”々のくさつにァましだらう *

 「此辺の女陰門いたつてくさし
  くさきものを嗅げバかならず唾(つ)をはく也
  依ってくさつといふ
  弘法大師此のことをききなひ
  その悪臭をふうじたまふ
  依って今ハ陰門くさきもの一人もなし」

  書き入れ/こたつのぬく本”々は
       またかくべつのあぢがするぜ

      /さうかへ
       わたしもなんだか
       いいよいいよ

楽しんで頂けましたでしょうか?
東海道五十三次もあと2回を残すのみとなりました。そこで、お下劣とは存じますが、名残惜しいと思われる向きに前々回よりご紹介の『日記』巻末の道中案内を五十三次の初めよりご披露しようかなと筆者考えております。いかがでしょうか? まあ、例の調子でショ〜もないシモネタばかりなので、些か逡巡しても居るところであります。

ではまた次回。
                      亭主敬白

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ミーシャンのよんでみ亭 東海道五十三次めぐり(63)  
水口から 石部へ 3里12丁
    〜六道めぐり その8〜

 山里にうき夜いとはむ友もがな
   くやしくすぎし昔かたらむ  (西行)

2月とはいえ暖かい日が続いておりますが、みなさん如何お過ごしでしょうか? (※けんおじ注:ミーシャン2007-02-06の脱稿です。)

日中暖かいといってももちろん夜は寒いですね。よってついつい酒に手が伸びる。
まあ、春の宵でも暑中でも晩秋でも手が伸びるに任せるわけですが、何度も申し上げましたようにワタクシ晩酌は日本酒でありまして日々毎日平均3合ばかり嗜んでおり、ひたすら肝硬変への道を歩んでいる次第です。
ところで先日ある本に面白いことが書かれておりました。         
いわく、日本酒などの醸造酒と、焼酎など蒸留酒とは酔い方が違う。醸造酒は気分がゆるみ、だらしなくなり、女性に声をかけたくなる軟派の酔いなのに対し、蒸留酒は理屈っぽくなり議論のはじまる硬派の酔い。であるから女性と飲むなら醸造酒、男同士なら蒸留酒。だそうな。
九州男児(もう死語かしら)は焼酎ばかり飲みます。したがって硬派であります。無論ワタクシの友人達も焼酎一辺倒(2次会は不明)でありますので硬派ぞろいでありまして、宴会で給仕のかわいいオネーチャン(や、それなりのオバチャン)にもチョッカイどころか舌も出さず口を利くのは注文のときだけであります。彼女の名前や歳を聞くなんてこと間違ってもありませぬ。なかでも儀は聖人君子のごとく振舞っておることをここに特記しておきます、デヘ。
ま、ワタクシに関してはこの説もムベなるかなというところですが。

さて前回は天台の話をいたしましたが、今回はお経のはなしを少々。
ともかくも紀元前5世紀に現在のネパールに生まれた釈迦は前486年(一説に386年)2月15日入滅しますが、大乗仏教の最初の経典である『般若経』が紀元後50年ころにできて以降、維摩経・法華経・華厳経・無量寿経・阿弥陀経の順に作られていったそうです。(第1期大乗経典―1世紀〜3世紀)
般若経のできるまでざっと500年間小乗仏教だけの時代が続いたわけですが、只今では『小乗』(一人だけ乗れる乗り物=出家し厳しい修行をした僧のみ悟りを開き救われる)といわず『上座部』仏教として現在でもスリランカ・タイ・ビルマ・ラオス・カンボジアなどでは主流に行われています。(不明にして筆者、へェ〜でした)
大乗(大きな乗り物ですべての人を救う)のほうは3世紀にインドに龍樹(りゅうじゅ=ナーガールジュナ)が現れ大乗思想を理論体系化しました。するとまた経典が作られました。如来蔵経・不増不減経・涅槃経・解深密教などなど(第2期大乗教典)。するとまた(インドに)無着・世親が現れこれらの教典を理論化します。
いやはやスゴイものです。これみんなお釈迦様の教えなのです。仏滅後も延々とその教えが新たに述べられていくのであります。
西洋や中東みたいに旧約・新約聖書やコーランという確固とした聖典を持っている社会と違って、あらゆる仏教典がすべて聖典といえば聖典なのですから東アジアは土台昔から文化が異なっています。世界観がそもそも違うのよ。
で、そういった仏教典が中国に入ってきます。なかでも406年インド系の鳩摩羅什(くまらじゅう)が漢訳した『法華経(ほけきょう)』は名訳だそうな。その法華経も含め種々の教典が混然と中国にもたらされた結果、天台智擇砲茲辰董峺淹八教」として体系化され、最澄がその教説を日本にもたらし日本天台宗(天台法華宗)が生まれ、ここから浄土宗、浄土真宗、日本禅宗、日蓮宗が生まれた、とこういう流れであります。以上前回の補足でした。
ということで恵心僧都についてはまた次回に。

 【石部】〜目川之里〜
石部1

さて東海道であります。
絵は、石部から草津へ向う途中の目川の立場にあった菜飯(青菜を入れて炊いた飯)田楽豆腐の店を描いております。街道では相当の名物だったんですな。背景に見える山はもう琵琶湖対岸であります。

石部2
     
 * かたいいしべの木まくらよりも
     わたしやおまへのひざまくら *

 「此宿の女陰門いたつて小さく空割より
  両縁(りょうふち)又細舌(さね)など
  こつこつして男根のあたまで是を突(く)に
  石など推(す)がごとく覚ゆ
  石部にハあらず石陰門(べべ)なりといふせつあり」

 書き入れ/五ばんや六ばんしたといつて
      そんなにぐたぐたするくらいなら
      てんからわたしとねへがいい

     /もうもうへいとのきつねけんで
      めがおまハりにやア
      かなハねかなハね 

あっちゃ〜、今回はまた申し訳ありませんねえ。
会話も、どうゆうシチュエイションかも今ひとつ解りませんが、まあ絵の通りでしょう。

1972年、中国湖南省長沙市で発見された馬王堆(漢代の墓)から出土した『合陰陽方』という2000年以上前に書かれた房中術(男女和合による長生術)の書物には次のようにあります。
「はじめは十回、次は二十、三十、四十、五十、六十、七十、八十、九十。百回出し入れしても、ほとばしらせてはいけない。ひとたび動いて出さなければ、耳はよく聞こえ、目はよく見えるようになる。ふたたびで(出さなければ)声がハッキリし、三たびで皮膚につやが出て・・・九たびで神明に通じ、十たびで身は常(とこし)えのものとなる。」

この房中術は我が国へも伝えられ、平安時代の医学書『医心方(いしんほう)』にも記載されており降って江戸時代かの福岡藩士貝原益軒の金言「接して漏らさず」に至るわけです。

でありますので精力善用を旨として無駄に腎を遣わないようにしましょうね。えへへ、昨今はあまり関係の無い話となりにけり、ですね。

ではまた次回。
                      亭主敬白

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ミーシャンのよんでみ亭 東海道五十三次めぐり(62)  
土山から 水口へ 2里半11丁
      〜六道めぐり その7〜


1月もはや半ば過ぎて暖冬とはいえ朝晩寒い日が続きますが、みなさんには如何お過ごしでしょうか?正月気分も漸く抜けて各位ご活躍のことと存じ上げます。 (※けんおじ注:ミーシャン2007-01-16の脱稿です。)

さて前回ご紹介した『膝寿里日記』巻末道中案内〜坂下〜の現代語訳をBBSに少し書きましたが、入りきれませんでしたのでここで補足致します。

 「・・・二本松の下に蟹塚あり。むかしこのカニ美人に化け沢山の男を誑しこんでは男根(へのこ)をはさみ切って喰っていたが、たまたま恵心僧都を誘惑したところもったいなくも金剛石のような絶倫男根(まら)にたちまちハサミは打ち砕かれそのまま死んで怪異は止んだという。・・・」

ここに恵心僧都とあるのは、“地獄物語”とも呼ばれるかの『往生要集』(1部3巻10章)を著した源信和尚であります。
源信(942年〜1017年)、平安時代中期の天台僧。日本浄土教の祖とも仰がれておりますが、ここで少し仏教についてのお話をひとくさり。

 538年(552年の説もあり)、仏教伝来。
ときの二大勢力である、仏教受け入れを推進する渡来系の蘇我氏と国つ神を信奉し廃仏派の物部氏が、天皇の皇位継承問題をきっかけに争い587年物部氏滅亡。
蘇我氏系の聖徳太子は推古天皇の摂政となり蘇我馬子とともに政治を主導。
太子は17条の憲法を制定したほか『三経義疏』(さんぎょうぎしょ―勝鬘経・維摩経・法華経の注釈書)を著す。
622年聖徳太子没。のち太子一族々滅せらる。
645年蘇我氏、中大兄皇子と中臣(藤原)鎌足に攻められ滅亡。同年、大化の改新。

ところで教科書から聖徳太子の名が消えるそうですが、皆さんご存知でしたか?
現在使われている教科書も表記は“厩戸王(聖徳太子)”となっており、新教科書では( )内がなくなるそうであります。単に厩戸王だけですって。
なんと、聖徳太子はいなかった!という有力説まであるそうな。だったらあの1万円札ってなんだったの? 和を以って貴しとする、篤く三宝を敬えといった17条の憲法は?
げに、刻々と歴史も変わっていってるんですね〜。

それはともかくそれ以降官営の寺院が幾つも建立されましたが、平安時代に入りチョ〜画期的なことが804年に起こります。天台宗伝来であります。
チョ〜といいますのも「天台・真言は国家鎮護目的の貴族仏教であった」くらいしか歴史認識のなかった私がこの度地獄に堕ちるに当たり、積年の飲酒のため酒精で縮こまった脳味噌を振り絞って地獄についての前知識を調べておりましたところ、なんと浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗の各宗派はこの天台宗から生まれていたということを初めて知り、まさに驚天動地、最澄の偉業は前述の仏教伝来にも匹敵する歴史的快挙である――と感動したからでありますが・・・・みなさんすでにご存知でしたのね。でも大袈裟な私にもうちょっと付き合ってね。

さて6世紀の中国に天台智(ちぎ)が出てそれまでの雑多な緒仏教をはじめて統合体系化しました。
彼の思想的な功績として“教相判釈”と“止観”があげられます。
“教相判釈”とは釈迦の経典の時代判定と価値判断であります。彼は中国に存するあらゆる経典を「華厳・阿含・方等・般若・法華」の5グループに分類し、それをそのまま釈迦の一生にあてはめました。
すなわち、はじめ釈迦は自分の教えを語りましたが難しすぎて人々はよく分からなかったので(華厳部)、分かりやすい小乗の教えを方法として説き(阿含部)、徐々にその教えを否定して(方等部)、次にすべてに通ずる教えを説き(般若部)、最後の40日間に心に秘していた真実の教えを明らかにした(法華部)という解釈であります。
また化儀4教、化法4教という分類法からも法華経は頓教(釈迦にじかに聞いた教え)であり円教(統括的教え)であり、最高の価値を持った経典であると断定したのであります。(以上、五時八教といいますげな)
したがって天台においては法華経こそが真の正しい教え(実教)であり、他の経典は仮の教え(権教・・方便ですね)であったのであります。
ちなみにみなさんもご承知のようにずっと後年日本では比叡山にも学んだ日蓮が、この五時八教理論を根拠にこの法華経のみが唯一無二の真の経典だとして日蓮宗を立て、他の経典は邪教異端であると排斥しております。
つぎに“止観”であります。つまり内なる心をみる方法であります。その見方を説いた講義録が“摩訶止観(まかしかん)”であります。
智擇砲茲譴仗瓦里りなす世界は十に分けられます。いわく「地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天、声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)、菩薩、仏」の十界でありますが、それぞれの一界にまた十の世界がありますそうな。(つまり人間界のなかにも地獄や菩薩界があるように)あわせて百の世界があるわけですが、またそれぞれが十の様相を持つので1千世界となります。これは衆生界のはなしで、別に五陰と国土の各1千世界を合わせれば、世界は3千の世界で出来ているというんですって。

 三千世界のカラスを殺し 主と朝寝がしてみたい (伝 高杉晋作)

 〈この都々逸を登場させるためにここまで引っぱりました・・筆者〉

今一瞬の心の中に3千の世界が存在するわけです。その一つ一つを深く内観すれば世界の秘密がわかると。
で、わかって、ど〜なのよ?って聞かないでね。

あちゃ〜長くなりましたので、肝心の恵心僧都のことはまた次回にお送りします。
       
(参照;梅原猛「地獄の思想」昭和42年中公新書版/田村芳朗・梅原猛「絶対の真理〈天台〉」平成8年角川文庫版)

では東海道であります。
【水口】〜名物干瓢(かんぴょう)〜
水口1
 
干瓢は夕顔の果肉を干したものだそうな。初めて知りました。巻き寿司でしかお目にかからないモンね。
水口2
   
  * いろの恋のと みなくちぐちに
        いふハやくのか そねむのか *
   
 「小野の小町此宿を通りしに
  所のものども是をとらへ
  廻りをとらんと志〇〇〇
  推しころばしてはめんとするに
  穴あらざれバ皆みな口をすひたりしと
  されバ水口にハあらず皆口なり
  といふ説あり」

  書き入れ/およしといふに
       あれさなんだかきがせくからよウ

      /ところをゆつたりおちついて
       おもいれすかすか
       やるつもりだ

今回は絵も地味、かつ時間不足のため読めない字が多数ありまことに申し訳ありません。
次回にご期待ください、ネ!
                       亭主敬白

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