ふるさとのお社(22)〜諏訪神社〜
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ふるさとのお社(22)〜諏訪神社〜

・・・さらに注目したいのは、この(和邇ワニ氏)一族のなかに、柿本人麻呂のような人物がいることである。しかも人麻呂の歌を通してみるとその世界観は『古事記』のそれと完全に一致する。だからと言ってその(古事記の)作者を人麻呂のような特定の個人に擬するまでに煮詰めることはできないけれども、その一族の誰かであるとみてよかろう。
     (川副武胤)

今年の冬は近年になく寒いですね〜。みなさんお元気ですか〜?
正月もあっという間に終わり2月逃げ月、まもなく春3月を迎えますね。
冬眠生活にピリオドを打って街に出て行きましょう。新幹線も開業しますしきっとまた素敵な出会いが待っていると思います。
(けんおじ注:みのる2011年3月3日の脱稿です。)
・・・ってな広告のコピーみなたいなセリフはこのくらいにして、昨年の続きを―。

スサノヲの治める根の堅州の国に逃れた大穴牟遅(オオナムヂ)には新たな試練が待っておりました。
と申しましても、これから記しますオオナムヂの冒険は古事記のみに書かれた神話であり、日本書紀には記述がありません。
といいますのもこのお話はヤマトが日本を制覇する以前の先住の神々が統合されたと思われる神の物語でありオオナムヂは本来の名が大国主というくらいの大王(だいおう)であったのですが、日本正史としての日本書紀はこの神話に続く国譲りは詳しく記しておりますけれども大国主の素状に関してはスサノヲの子とだけあるのは、古事記にあるがごとくロードムーヴィーのヒーローのように大国主を描いたのではヤマトが大国主の治めていた中つ国を禅譲されたのではなく簒奪したと受け取られかねないのを恐れたためと思われますが、いかがでしょう。

ともあれ本編に入ります。

さてスサノヲの元を訪れたオオナムヂがスサノヲの娘須勢理毘賣(スセリ ヒメ)と出会った途端二人は恋に落ちたのでした。目合(まぐあひ)して相婚(あ)ひたまひ (たがいに目配せして心を通じた。・・あらまここから来たのね)してスセリヒメが父スサノヲに申し上げることには「甚(いと)麗しき神来ましつ」(ちょ〜素敵な神がいらっしゃったわ)大神出でて見るに「こは葦原色許男(しこを)というぞ」(強そうな色男ではないか)とてオオナムヂを呼び入れ蛇の部屋に招じ入れたのでした。

ここにスセリヒメ蛇除けの領巾(ひれ=スカーフ)をオオナムヂに授け安心して眠れるようにします。

次の日にはムカデ・蜂の部屋で寝かせますがヒメは同じように領巾を授けましたのでオオナムヂは翌朝安らけく部屋から出てこれたのでした。

翌日、大神は草原に鏑矢を射入れオオナムヂに探しに行くよう申し渡しました。オオナムヂが草原に入るや大神は火を放ちます。八方を火に囲まれ途方に暮れているとネズミが来て言うことにァ「内はほらほら、外はすぶすぶ」(中は空洞、出口はすぼんだ・・洞穴があるよ)

オオナムヂその穴に入り火が燃え過ぎるのを待ち焼け跡に出てみると件のネズミ例の鏑矢を咥えて来ります。

その頃スセリヒメは父の酷い為さり様に泣き崩れておりました。大神は今度は如何だろうと思いその野に出で立ったところオオナムヂが歩み来たり大神に鏑矢を奉ったのでした。

そこで大神はオオナムヂを率い大室(大きな部屋)に入ると自分の頭の虱を取るように申し付けます。が、大神の大きな頭にいたのは無数のムカデだったのです。この時スセリヒメはオオナムヂに椋の実と赤土(ハニ)を渡し噛み潰すようにと囁きます。

オオナムヂが口を真っ赤にしているのを見てムカデを食い破って吐き出したと勘違いした大神「愛い奴じゃ!」とオオナムヂを褒めたあと高鼾で寝入ってしまいました。

大神スサノヲが眠っている間にオオナムヂは大神の髪をその室の垂木に結わえ付け室の出口に500人かかっても動かせないほどの巨石で蓋をして、スセリヒメを背負い大神の生大刀・生弓矢(生き生きとしてエネルギー溢れる刀弓矢)と天の詔琴(のりこと)を抱えて逃げ出しますが、途中天の詔琴が樹に触れ地面が揺れるほど大きな音を出しましたので大神は目を覚まします。

驚いて室を引き倒しますけれども結わえ付けられた髪を解くのに手間取っている間に二人は遠くまで逃げることができました。

よって大神ここに黄泉比良坂(よもつひらさか)追い至り、遥かに望み大穴牟遅(オオナムヂ)神に呼ばいて謂ひしく、

「その汝が持てる生大刀・生弓矢をもちて汝が庶兄弟(ままあにおと)をば、坂の御尾に追い伏せ、また河の瀬に追ひ払ひて、おれ(お前)大國主神となり、また宇都志國玉神となりて、その我が女(むすめ)須勢理毘賣を嫡妻(むかひめ)として、宇迦(うか)の山の山本に、底つ石根(いわね)に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽(ひぎ)たかしりて居れ。この奴(やっこ)。」

つまりは「私が持っていた武器で大勢の神を追い払い、お前が中つ国の大王となりその美しい国の守護神となって、我が娘を娶り、宇迦の山の麓に地底の岩に柱を太く掘りたて天空に垂木を高く上げて宮殿を作りそこへ居れ!こやつめ!!」

こうしてスサノヲから受け継いだ軍事的権威の象徴である生大刀・生弓矢と祭祀的なそれの天の詔琴を以って、多くの神々を排除して初めて国を作ったのでした。

このあと付け足しのように、前々回御紹介した『八十神が妻乞いして私はオオナムヂがいいわとて総スカンを喰らわせた』八上比賣(ヤガミヒメ)のことが記されます。

オオナムヂが八十神の嫉妬を避けるため根の堅州国に逃げる前に操を捧げたのですが(いつの間に?)オオナムヂが戻ったというので会いに来ます。が、スサノヲの娘スセリヒメを嫡妻としたと聞き畏んで、オオナムヂとの間にできた子を木の俣に刺し挟んで引き返したということです。

ヤガミヒメのなんという潔さなんでしょ!
またウサギの話から始めてキチンと“落ち”を記す古事記作者の律義さよ!

それにしてもオオナムヂの別名が日本書記では葦原“色許男”(しこを)ではなく“醜男”とあり、あまりいい字は使われておりません。とりあえずアマテラスにとって弟スサノヲの子でありますから甥に当たりますが、どうもスサノヲの名自体荒ぶるとかスサむとかこちらも比較的負のイメージでありますのでヤマトから見て両神とも異国の神(蕃神)ではなかったか・・ということです。そうして文化的にも宗教的にも征服しつつ取り込んで行ったのではなかったか。

いまいちオオナムヂ=大国主の性格がはっきり書かれておりませんが、こうして改めて古事記を読んで行くと非常に面白いですね。
ということでこの続きはまた次回に。      
       亭主敬白

| けんおじ | みのるの古文書談義 | 12:07 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ふるさとのお社(21)
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ふるさとのお社(21) 〜番外おさらい編〜
 
 
少(わか)くして学べば則(すなわ)ち壮にして為す有り。
 
壮にして学べば則ち老いて衰へず。
 
老いて学べば則ち死して朽ちず。   (佐藤一斎)

みなさん明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。 ※みーしゃん 2011.01.26の脱稿です。
さて年頭からお詫びの御報告で申し訳ありませんのですが、昨年10月の大同窓会後の2次会の折に広言致しました本年2月18日の別府お泊まり会は諸般の事情により中止致します。

たぶん覚えていない諸君が大半であるとは思いますが心待ちにしていた方も中にはいらっしゃる(当の私もそうですが)かと。

まことに御気の毒に存じます。またの機会に望みをつなげましょう。

・・・などと無責任な話から始まった今年初めてのよんでみ亭の幕開けでございますが、おかげさまで“ふるさとのお社”シリーズも3年目を迎えることができました。これもひとえに皆さんの御贔屓の賜物(そこまでは・・?と思ってる?)と存じ上げております。まことにありがとうございます。

ところで長引く不景気のせいかここんところパワースポット流行りということで割とマイナーな神社仏閣でも結構な人出があるみたいで、ちょっとマスコミにでも出ようものなら混雑するぐらいの人気が集まるってのを昨年初めて経験しました。

少々古うございますが下の写真は昨年9月に写したものであります。

行楽日和の日曜ではありましたが、この行列であります。

石段のずーっと下から並んで待っております。

これはなんぞや?なんかのエベントかしら?と思って左手のおじさんみたいに並んだ行列をパスして登りつめてみると、

行列は延々と拝殿まで続いておりました。

名にし負う「高千穂神社」であります。と思ったほどには拝殿本殿とも大きくありませんでしたが。

しかしお正月でもあるまいしお参りするだけなのにこうやって何十分も並ぶのかしらね・・と思いつ横っちょから手を合わせておきました。(この不敬者!)

御祭神はニニギ之尊・このはなさくや姫・三毛入野命(神武天皇兄)など。

あとで伺えば九州のパワスポとしてここともう一ヶ所(不明)が有名雑誌に掲載されたとのこと。観光ルートにも入っているみたいで駐車場にもバスが溢れ老若男女を問わず押し寄せている感がありました。参拝だけならタダだしね。

ではもうひとつ。今度はお寺。

上は京都宇治の平等院鳳凰堂であります。10円硬貨にも図案化されておりますね。

下は中に納められている阿弥陀仏であります。正確に真東を向いて座っていらっしゃいます。

つまり池(阿字池)のこちら側から鳳凰堂を望めば即ち紛れもなく西方浄土を望めるという目的を持って、藤原道長の広大な別荘を息子の頼道が堂宇に改修したものであります。

その頼道も83歳を一期として身罷りますが、多分この阿弥陀仏の傍らに横たわり仏の御手に結ばれた五色のテープの一端を己が両手にしっかと握りしめ、お堂の四方を巡る沢山の飛天によって静々とまた厳かに極楽浄土へと導かれて行く我が身の幻を見ながら頼道は絶命したのでしょう。

なんという贅沢!その頃のチョーお金持ちしかできなかった最高の贅沢と謂えましょう。というのもこの頼道など50年に渡り関白を務めた1000年代1番の権力者であります。官位は従一位。国から莫大(只今なら何億というのを死ぬまで)な年俸と都に広大な土地が支給されるのに兄弟・子・孫に至るまで税金はタダ。というわけで我が寺で我が仏に導かれて死ねたのですから。

そんな事を考えながら紅葉の残る12月初めの宇治平等院を歩いたのですが、拝観料は900円(内部観覧含む)よ〜。ちょっと高くない?おまけに内部観覧に1時間も待たされて、いくら奇跡的に現代まで残った世界遺産とはいえねえ・・(他の広大な廟堂伽藍は楠木正成方と足利尊氏方の合戦で焼け落ちた)。

天台宗の寺と浄土宗の寺の共同経営ですってよ。

ま、それはそれとして栄耀栄華を誇った藤原摂関家も道長・頼道を頂点として時代は急転、摂関政治はあっけなく終わり院政の100年を経て武家の世へと移って行くのでありました。

ということで今回はおさらいを。

まず第1回目が高良大社でありました。御祭神は高良玉垂命。配祀八幡大神・住吉大神。御神徳は厄除け・延命長寿など。

垂玉命は明治までは武内宿禰説が有力でしたが一説に古代北九州で有力だったとされる水沼君、また一説に筑紫弦田物部祖天津赤星、また一説にニギハヤヒ!詳しくはまた後日。

第2回、水天宮。御祭神は天御中主神・安徳天皇・高倉平中宮・二位尼。御神徳は安産・子授け・水難除けなど。

第3回が例外的に萩の松陰神社。御祭神はもちろん吉田松陰(と松下村塾々生)

第4回櫛原天満宮と北野天満宮。御祭神はもちろん菅原道真。御神徳は学業成就ですね。天満宮は久留米市内に多いです。合祀したものを加えれば25ヶ所を下りますまい。

第5回は伊勢天照御祖神社。御祭神が高良山のほうは天照大神で大石町がニギハヤヒであります。

第6回は特別編で伊勢大神宮でありました。

第7回、須佐能袁神社。

んで第8回が只今続行中の諏訪神社ということになっております。

ということで今年も張り切って参りたいと存じますので宜しくお付き合いのほど、ズズズイーッとお願い申し上げます。

それと時々飲み過ぎて、ちと海老ゾルことあるやも知れませんがそれもよろしくね! ではまた次回。

亭主敬白

| けんおじ | みのるの古文書談義 | 16:23 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ふるさとのお社(20)
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 ふるさとのお社(20)
〜諏訪神社◆
・・そしてこれは多くの学者を驚かした説なのですが、
私はいろいろのことを考えて、稗田阿礼は藤原不比等
の仮名であると考えています。   (梅原 猛)

今年もいよいよ最後の月となりましたが、みなさん息災にお過ごしでしょうか?

先日の忘年会、大変お疲れ様でございました。とても楽しかったですね!
 ※2010.12.21 みーしゃん脱稿です。

会場の諏訪中近くの居酒屋“天井座敷”のフロアーは貸し切り状態であったけど遅れて来た人・飛び入りで来た人で追加の嵐!たぶん当初見込みの
30人は軽く超え40人近くになったと思いますが店の人もテンヤワンヤ。世話人の黄昏シンちゃんには大そうお世話かけました。

10月の大同窓会以来の大宴会で、あっちでしゃべったりこっちで飲んだりと何がなんだかの狂騒状態でございましたがただ一つ鮮明に覚えておるのが、某機関の支店長である○○君の結婚(入籍?)暴露に乾杯!でありました。

お相手は26歳ということで「おめでとう!」の連呼でしたが「でも大変ね!」という声も。大きなお世話ですが娘みたいな歳のお相手にヤッカミも当然であります。だがしかし!

彼の隣りで飲んでおった△△君に「結婚知っとった?」と聞けば「んにゃ、初めて聞いた。」と真顔で答える。ありゃあ親友の△△君が知らなんだとは・・チトおかしい、担がれたかなと思い当たったけれどガセでもメデタイ話だからまァいいかと思い直し乾杯しつつこの話はウヤムヤのまま幕を下ろしたのでありました。でも結局どうなのよ?


ということでチョ〜楽しかった天井座敷はお開きに。

そのあと僕らは6,7人連れ立っていつものワンショットバーへ。それから先は密談が多くて書けませんが、なんと!■■ちゃんマティーニ頼んでたよ〜ん・・とか思いながら私の記憶はいつものように桃色の霞の彼方に消えて行ったのでありました。

さてその前122日は神戸元町におりました。丁度ルミナリエの初日ということで前日思い立ちのぶらり旅でありました。


(よかろうが〜@ 早く行かなきゃいつ死ぬかわからんし・・とはいえ「アリとキリギリス」の話でいうなら当然キリギリスのセリフよなァ。


ホテルは会場のすぐ傍だったばってん小雨降る中グルっと遠回りに歩かされて当局の過剰警備に毒づいておったが、本物を見るとやはりチョ〜綺麗でしたばい。後で調べたら
13日までの期間中343万人が訪れたげな。


やっぱ前評判のごとゆっくり見るなら初日が狙い目でっせ。ついでにホテルは東急ビズフォートで、晩飯はすぐ隣接の南京町で上海料理の“蓮”がアットホームかつリーズナブルでうまか!おススメよ〜ん。っていうか他は知らんけど。以上自慢話と感想でした)

それではこれより前回の続きを。

気多(けた)の岬で赤裸にされて瀕死のウサギさんが伏しておりますと大国主神(=根の国に行くまでは名をオオナムチ神と申し上げる)を最後尾に従えた沢山の兄神達(八十神)の一行が通りかかります。おのおの稲羽に住む八上比賣(やがみひめ)を嫁取りに向かう途中であります。

ウサギさんを見た兄神達の言うことにゃ、


「難儀しておるようじゃな。・・そうじゃ、海水を浴びて風に当たり高い山の尾根に伏せておれば治るぞ。そうせい、そうせい。」


その言葉を真に受けたウサギさん、その通りにしましたところ海水が乾くにつれ皮膚の皮がひび割れ風が吹く度に裂けちぎれそうです。


あまりの痛みにウサギさんが泣き伏していると、兄神達の荷物を入れた大きな袋を背負い最後にやって来たオオナムチ神、ウサギさんを見つけ、

「なにゆえおまえは泣き伏す?」


「じつはこうこういう訳で赤裸にされたのですが、先ほど通りかかった方々にこうこうした方がいいと言われその通りしたらこんなになってしまいました、ウウウ。」

ここにオオナムチ神、ウサギさんに教え諭すには、

「真水で体を洗い蒲(ガマ)の穂を取って撒き散らした上に寝転べば、お前の体は必ず元通りになるぞ。」


「ありがとうございます。やってみます。」と藁をもすがるつもりでその通りにしたところ、その身もとの如くになった。

これ稲羽の素兎なり。今は兎神と謂う。


故(かれ=よって)、その兎、オオナムチ神に申し上げるには「この八十神は決して八上比賣は得ることはできないでしょう。袋を担いで彼らに従われているけれどあなたこそ彼女を得ることができるでしょう。」と、予言したのでありました。


場面は変わって八上比賣に面会した八十神は彼女から「私はオオナムチ神に嫁ぎます」と宣言され、大いに怒った八十神は彼を殺そうと相談します。


八十神はオオナムチ神に山から赤い猪を追い落とすからお前は下でその猪を受け止めよと言いつつ真っ赤に焼けた大石を転げ落として抱き取らせ、とうとう彼を焼き殺してしまいました。


驚き悲しんだ御親(母神)は天に上って神産巣日之命(かみむすひのみこと)にお願いし赤貝比賣
(ひめ)と蛤比賣を遣わしてもらい治療して生き返らせてもらったのでした。


またまた頭にきた八十神は今度は大きな木を切ってそこにつっかい棒を立て、オオナムチ神をだましてその木の下に入らせた後そのつっかい棒を打ち放して彼を押し潰してしまいました。そこでまた嘆き悲しんだ母神は神産巣日之命にお願いして蘇らせましたがなお八十神は追って来ます。よって神産巣日之命はオオナムチ神にこう告げたのでした。


「須佐能男命のいらっしゃる根の堅州の国へ参り向かうべし。必ずその大神がなんとかしてくれるであろう。」と。


なんという意地悪で嫉妬深い八十神でありましょうか。神々の世界も色々とあるんですね。また
2度死んで2度蘇り、これより根の堅州国へ向かったオオナムチ神は再び名を変え度々の試練を乗り越えて行くのでありますが、それはまた新年の次回にということで。

それにしてもどこが諏訪神社の話かと御不審の諸君へ。

もうちっとお待ちくださいね。

それでは、佳いお年をお迎えください。

今年もお付き合い頂きありがとうございました。

亭主敬白 2010 年 12 月 21 日

| けんおじ | みのるの古文書談義 | 10:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ふるさとのお社(19)
 ふるさとのお社(19) 〜諏訪神社 

 「豊葦原の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂國は、
  我が
御子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほのみみのみこと)の知らす(治める)國ぞ。」  (天照大御神)

去る10月9日の大同窓会、大変お疲れでございました。
われらが48会は総勢50人ほどでしたが例年の如く第2会場で賑々しく盛大に、相変わらず第1会場のメインステージの進行に関わりなく楽しいひと時を過ごさせていただきました。
いや〜盛り上がりました!二次会も30人以上の参加者で、遠くは金沢から駆けつけてくれた5組のI君も付き合ってくれました。
毎年こうして必ず1回は再会の場があるっちゅうのはとても素晴らしいことですね。個人的には途中から記憶が桃色の霞の中に溶けてしまいごめんなさい、友人諸君。
 ※みのる2010年11月15日の脱稿です。

さて、前回はスサノヲがクシナダ姫と結婚し新居を構えて歌を詠んだところまででしたね。

これよりスサノヲは、〈櫛名田比賣(クシナダヒメ)をもちて隱戸(くみど)に起こして(寝所で交わって)〉八島士奴美奴(ヤシマジミヌ)神が生まれます。
また(う〜ん・・、ここでなぜか突然出てきますが)大山津見神の女(むすめ)神大市比賣(カムオオイチヒメ)を娶って生める子が、大年神(オオトシノカミ)と宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)の2柱でありました。

この大山津見神ですが、イザナキ・イザナミの御子で文字通り山の神様とされております。この神を祀る本源の神社である伊予(愛媛県)の大山祇(大三島)神社の社伝では山・海兼備の神様ということになっておるそうです。

スサノヲは須賀の宮よりまたしても遍歴して伊予の姫神と再婚したのでありましょうか?

よくわかりませんが、のちに出てくるスサノヲの血をひく沢山の神々(八十神)が生まれるためには大山津見神の血脈と長い年月が必要だったのかもね。

古事記ではこの後のスサノヲの消息ははっきり書かれておりませんが、お馴染の因幡の白ウサギのお話があり兄神にいじめられとうとう根の堅州の国に逃げ込んだ己が6代の孫である大國主=大穴牟遲(オホナムヂ)に試練を課す、根の堅州国を治める神として再登場いたします。(後述)

一方、日本書紀では「須賀に新宮を建てられ、歌を詠われたあと夫婦で睦言をされて、子の大己貴(オホナムヂ)神を生まれた。そのあとイナダヒメの両親に名を賜り自分は根の国に行かれた。」とあります。

・・・あの、両書共にきちんと“夫婦の交わりをされて”神が生まれたと書かれておりますので時はかなり有史時代に近付いてきたようですね。

さてそこで童心に帰って出雲のお隣因幡の国のお話を。

おきの島に住む1匹のウサギさん。どうにかして対岸の本土に渡りたい。どうしたもんかと思案しておりました。

そこに折よく通りかかったのがワニさんの一群でありました。

じつはこのはなし、神話というか童話というかそんな話に多い勧善懲悪・正直者が最後には幸せになる寓意性の高い心温まる物語でありますが、いきなり日本海で“ワニ”の登場であります。

ワニはいくらなんでもなかろうということでサメだろうということですが、後に述べるようにサメが整列するか?という問題があるのよね・・・、それはともかく。

「もしもしワニさん。あなた達の仲間は沢山いるのね。私達も結構多いのよ(ちなみに兎は多産ですね)。なんだったら数比べしてもいいわよ。」

「そんなことができるのだったら面白い。どうやるんじゃ?」

「じゃみんな並んでね。あの向こう岸の方へ1匹ずつ並んだなら私がその上を跳ねながら数えて行くから。」

「よっしゃ。」と気のいいワニ達でありました。

その頃はまだ動物達は異類同士であってもの共通の言葉が使えたようで・・。

ウサギさんはワニの背中を大きな声で数を数えながら跳ねて行きましたが、もう少しで向こう岸に着きそうだという時になり、なんとしたことでしょう、

(たぶん余りに思惑通りに行ったので、チョ〜思い上がったのでしょうか・・であれば余りに軽率であります、というか、じゃないと話が進まんけど)

こみ上げてくる笑いを噛み殺しながら「何ておマヌケなワニさん。わたしが海を渡りたかったからあなた達を利用させてもらったの。ホントおひとよしね〜(ワニだけど)。」

それを聞きつけないほど馬鹿なワニではありません。

サァと行列が割れるや海に投げ出されたウサギさんの毛を寄ってたかって嘴(?)でむしり始めました。

あ、海に落ちた時点でワニでもサメでも相手はウサギなんだし普通当然食われてしまうはずですが、言葉の通じる者を食ってしまうという野蛮なことはできなかったかも知れませんね。でなけりゃそもそもワニサメに似たイルカだったのでしょうか・・ヤレヤレ。

ということで古事記では大国主命編として、さめざめと泣いている哀れな裸のウサギさん(=稲羽の素兎)が袋を背負った大穴牟遲(オホナムヂの)神=大国主命と出会うところから話を起こしております。

その続きはまた次回ということで、乞う!ご期待。

亭主敬白

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ふるさとのお社(18)
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 ふるさとのお社(18)
〜須佐能袁(すさのを)神社◆
秋めくや焼鳥を食ふひとの恋 (石田波郷)

毎度お暑うございますが皆さんにはお変わりありませんでしょうか?無常迅速8月もアッという間に終わりすでに長月9月であります。と申しますと今年も残すところあと4ヶ月となりました。うう、はや〜!
 (※みーしゃん 2010年9月4日の脱稿です。)

9月は私の誕生日、10月9日明善大同窓会、11月27日が卒業以来初の城南中学年同窓会と毎月イベント続きであります。当然飲み会続きで肝臓と懐は悲鳴を上げるのですがそこはそれ、2010年の秋は人生に1度きりということで懐かしい友人達と乾杯乾杯また乾杯、友情プラス稚気と酒気がない交ぜになって怒涛の如く恒例年末行事(忘年会などなど)へとなだれ込んで行くのであります。

要するに今年も飲むばっかしだったかシラン・・。

それはそうと。

前回はスサノヲのせいで天の機織女が死んでしまった所まででしたね。

これにはさすがのアマテラスもお怒りになって(見畏‹かしこ›みて)天の石屋戸(岩戸)にお籠りになりました。結果、高天原も葦原の中つ国も悉くに暗くなって夜ばかり続き禍(わざわい)が頻発します。

はてさて八百万の神々は困ってしまいました。

そこで知恵者の思金(オモイカネ)神が名案を思い付きます。まず常世の長鳴鳥(にわとり)を集め石屋戸の前で盛んに鳴かせ、榊の上の枝に八尺(坂)瓊勾玉(やさかにのまがたま)を掛け中枝に八咫(やたの)鏡を、下枝には白と青の幣を掛けさせました。

石屋戸横には手力男(タヂカラヲ)神を控えさせたうえで天宇受賣(アメノウズメ)命がひっくり返した桶の上で踊り始めました・・・“槽(うけ)伏せ踏み轟こし、神懸かりして、胸乳をかき出て裳紐を陰(ほと)に押し垂れき。ここに高天の原動(どよ)みて、八百万の神共に咲(わら)いき。

一方アマテラスは不審に思われたのでありましょう天の石屋戸を細目に開けられておっしゃるには、

「わたしが籠っているので天の原も葦原中国も真っ暗なはず。なのになぜアメノウズメは歌舞いし八百万の神はみな笑っておるのじゃ?」

「あなた様より貴き神がいらっしゃいますので喜び笑い歌舞いしております。」とアメノウズメが答える間に天兒屋(アマノコヤネ=中臣‹藤原›氏の祖)と布刀玉(フトダマ=忌部氏の祖)が八咫鏡を差出しアマテラス自身を映させる。

こはいかに、と鏡に映った自身の姿を「あれは誰じゃ?」もそっとよく見ようとアマテラスが石戸よりやや身を乗り出したのをハッシとその手を掴まえてタヂカラヲが引き出した。後ろに回ったフトダマすばやく注連縄を張り渡し「どうかこの内に還り入り給うことなかれ。」 (敬称略)

こうして“天照大御神出でましし時、高天の原も葦原中国も、自ずから照り明りき。”とて光が再び戻ったのでありますが、さてこの騒ぎの落とし前をつけねばなりません。

ここに八百万の神々は相談し、スサノヲの持ち物をすべて没収し(千位の置戸‹ちくらのおきど›を負わせ)髭を切り手足の爪を引き抜いて高天の原を追放したのでありました(神逐らひ逐らひき‹かむやらいやらいき›)。

ということで高天原編はこれでひとまず終わりであります。皇室の3種の神器のうち只今は伊勢神宮の御神体である鏡と皇居に安置されております玉璽の2種の由来が書かれておりますね。

さてこれより天界を追われたスサノヲの地上に降り立った先は出雲の国での英雄譚が展開されます。

ご存じ八岐大蛇(ヤマタノヲロチ)伝説でありますがスサノヲの怪物退治と嫁取りの物語であります。乱暴者のスサノヲは前節と打って変わり、この物語では8人の娘のうち7人までオロチに食べられた老夫婦に同情し、最後の一人であるクシナダ姫を嫁にくれるならオロチを退治して娘を救ってやろうと一肌脱ぐ好漢として描かれておりますね。

ということで酒を飲ましてオロチが酩酊したところをスサノヲが切り刻む。と、尻尾を切ったらカチンと音がしたので切り裂いたところ一振りの剣が出てきた。これは畏れ多い神物であるといってアマテラスに献上したのが只今熱田神宮の御神体であり3種の神器の一つである草薙の大刀=天叢雲(あめのむらくも)の剣であります。これで3種揃ったわけでありますね。

昔々わたしらが小学生の頃これら建国譚を描いた文部省選定映画ということで映画館に学校ごと見に行った覚えがあります。このオロチのシーンなどうっすら記憶がありますが皆さんはいかがでしょうか。

ちなみにこちら古事記に書かれている神代よりはるか後代の壇ノ浦平家終焉の時、いつぞやこの『よんでみ亭』でも書きました通り安徳天皇の祖母である二位の尼(平時子=清盛の正室)が安徳天皇を抱いて入水する折、身につけて海に沈んだ八坂瓊勾玉は浮き上がってまいりましたが、天叢雲の剣のほうはそのまま波の下、未だに行方知れずということです。

いやいやそれは形代(かたしろ)であって本物はやはり熱田神宮にあるという説もありますが、さてさて。

スサノヲはこの後、出雲の国の須賀(すが)という地に到りました時「ああこの地はすがすがしい」と言ってここに新婚のための宮殿を作ります。

その時詠んだ歌が、
  八雲立つ出雲八重垣妻籠みに
  八重垣作るその八重垣を

であります。こちらが我が国の和歌の嚆矢ということで『古今和歌集仮名序』にも我が国初の歌(アマテラスの兄スサノヲ作)となっておりますが・・。

その歌わんとするところの意味はというと、『日本の神様事典』などのスサノヲの項の解説では、「八岐大蛇は出雲を流れる斐伊川のことであり、この歌は水霊に奉仕する神女との聖婚による豊穣神としてのスサノヲの神格を表している云々」げなですが、いまいち言葉足らずで意味不明・・。

さて実は古事記より遅れること21年後に出来上がった『出雲の国風土記』には古事記に書かれているようなスサノヲの物語はございません。すなわち天津神どころか須佐郷という小さな盆地の守護神と紹介されおり、また地元の伝承によればもともと新羅の神であったそうな。日本書紀にも高天原を追放されたスサノヲは新羅のソシモリという所に降下したが「この地には私は居たくないのだ」と言って舟で出雲へやって来た、となっております。(一書第四)

で、そんならスサノヲは一体何者なの?ということになりますでしょう?

ここまでお付き合い下さった皆さんならお察しの通り、結局のところスサノヲとは天孫族に国譲りを強要された出雲族の、元々は韓半島由来の神であった、ということになりますね。

であるからヤマトから見れば初手は荒ぶる異国の神であり疫神であったというのも腑に落ちますでしょう

一方聖婚歌であるという先ほどの歌は出雲族から見ればどういう意味となるか?

「おれらイヅモの民はヤマトに負けただ。土蜘蛛(つちくも)と呼ばれてヤマトの下僕になる運命だ。あいつらがやって来たら女どもはみんな奴らの慰みものになるぞ。おれらの妻や娘らを何としても奴らの目から隠せ。何重にも垣を作ってその奥の奥に隠れさせろ。でなきゃ・・。」

八(たくさんの)雲(クモ)立つ出雲八重垣妻籠みに
八重垣作るその八重垣を

オウ、マイゴッド!
ということで今回は終わりであります。
ではまた次回。

      亭主敬白
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ふるさとのお社(17)
 ふるさとのお社(17)

〜須佐能袁(すさのを)神社 
  八雲立つ出雲八重垣妻籠(つまご)みに
    八重垣作るその八重垣を (須佐之男命)

毎日チョ〜暑い日が続いておりますが、みなさん息災にお過ごしでしょうか?
 (※けんおじ注:ミーシャン2010年8月11日の脱稿です。)
今年は梅雨のドカ雨・夏は猛暑と、仕事に出ていく意欲を減退さすような、はたまた楽しく暮らすというモチベーションを萎えさすような、地獄の釜のような天気の毎日でありますね。

さてさて今回からスサノオ編であります。

立派な楼門でありますね。草野にあります須佐能袁神社であります。

上の由緒書でもご案内のように明治の神仏分離令までは“祇園社”と呼ばれていたと存じます。たぶん。
祇園というは、祇園精舎のことでつまりは釈迦が説法をしたインドの寺院のこと。ここの守り神が牛頭天王(ごずてんのう)で8世紀頃スサノヲと習合しました。すなわちスサノヲとは日本にある時の姿で正体は仏法の守護神牛頭天王であり、またその神すらも仮の姿でその本地は薬師如来であったのでした。(・・・本地垂迹ってよく分からんからご自分で調べてね。)
先日京都であった祇園祭は有名ですね。コンチキチン・コンチキチンと祭囃子の音もとってもステキですが、もともとは感神院祇園社(明治より八坂神社と改称)で疫病神を慰めるための御霊会が起源だそうな。荒ぶる神スサノヲは疫病神でもあったのであります。(下記参照)

ということで灼熱の現世を忘れて再び神話の世界へとご案内しましょう。テキストは大体古事記であります。

さて、父神イザナキに追放を言い渡されたスサノヲ(須佐之男命)は「それでは姉神アマテラスに事情を話してから去(い)んでしまおう。」と高天原に登ります。
そもそも須佐は進む、荒ぶるという意味だそうで文字通りスサノヲが歩を進める毎に山川悉くどよめき国土皆震動したとあります。
あまりな騒動に驚いたアマテラスはきっとスサノヲが私の国を奪いに来たに違いないと思い戦の支度をしてスサノヲに向って言うには、
 「なに故に登って参ったのじゃ。」
スサノヲ答えて曰く、
 「僕(あ)は邪な心は持っておりません。ただ大御神(イザナキ)が、僕が何故泣き叫ぶのかをお尋ねになったので、母(イザナミ)の国(根の国=死の国)に行きたくて泣くのですと申し上げました。そうしたら大御神は『汝はここに居るべからず。』とおっしゃって、僕を追放なされたのです{神(かむ)逐(や)らひ逐らひたまへり}。ですので退去する事を御報告しようと参上したのです。異心などありません。」
 「ならば汝の心が清く正しい(明し)ということをどうやって知ればいいと言うのか。」
スサノヲ「誓(うけ)ひして、子を生まむ。」

こうして身の潔白を証明するためにスサノヲは(なぜか分かりませんがお互いに)子を生むことを提案したのであります。

まずアマテラスがスサノヲの十拳剣(とつかのつるぎ)を乞うとその剣を三つに折って噛み砕き、プッと吐き出すその息吹から3柱の女神が生まれました。ちなみにこの3神がわが福岡県宗像大社の御祭神であります。

一方そのあとスサノヲはアマテラスの身に付けていた五つの勾玉と珠を噛み砕き、プッと吐き出すその息吹からは5柱の男神が生まれました。ちなみに最初に生まれた男神が天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)であり即ち歴代天皇の祖神である天孫降臨したニニギ命の父神であります。

ここでアマテラスはスサノヲにこう告げます。ここもよく分かりませんが、

多分アマテラスは男の子が欲しかったのでしょう、
 「後に生まれし5柱の男子は物実(ものざね=物のできるもと)我が物より成れリ。よって吾が子ぞ。先に生まれし3柱の女神は、すなわち汝が子なり。」

ここからスサノヲは豹変します。

 「我が心清く明し。なぜなら我が生める子は手弱女(たおやめ)であったから。これによって言うなら自ずから我は勝ったのだ。」

こういうところが古事記の上手い所でありますね。たぶん稗田阿礼は朗々と謡うが如く口述していったのでしょう。このセリフからスサノヲが昂ぶっている様子が窺えますね。

でありますがなんだか安直に、この後のハチャメチャ振りの原因を次のたった一言で表現し終えております。

“勝ちさび”に=『誓約(うけい)での』勝ちに乗じて・・・アマテラスの営田(つくだ)の畦を壊し溝を埋め、また新穀を召し上がる祭殿(大嘗を聞こし召す殿)に屎(くそ)まり散らかした。

けれどもアマテラスはこう言ってスサノヲを宥めようとした。

 「屎なすは酔って吐き散らかしたのだろう、我が弟のやりそうなことだ。また畦を壊し溝を埋めたのは土地を惜しんだのだろう、我が弟のやりそうなことである。」

ところがスサノヲの乱暴狼藉は一向に止む気配も無くかえってエスカレートする一方であった。

とうとうある日アマテラスが清浄な機殿 (忌服屋いみはたや)で神御衣(かむみそ=神に献ずる衣)を織っていらっしゃる時、スサノヲは建物の屋根に穴を穿って生皮を剥いだ天馬を投げ入れた。驚いた機織の天女は梭(シャトル)で女陰を突いて死んでしまった。

さあ、この辺りもなんとなく納得できない展開ですね。どうして弟はそうグレちゃったのか・・。

識者によれば、アマテラスに象徴される先進世界(農業や機織を営む平和的な弥生文化)に反抗するスサノヲに象徴される野蛮な後進世界(狩猟を営み好戦的な縄文文化)の比喩だそうですが、そもそも男性格であった日神が、農業神として豊穣のシンボル化された女性格に変化し最高神となるために用意されたのが次の『天の石屋戸』編でありました、というはなしですが・・つづく。

次回は、何を謡っているのか判らない“本邦初と言われる短歌”であるところの冒頭のスサノヲの歌の意味を探りつつ、天岩戸における天鈿女(あめのうずめ)の活躍ぶりをお送りする予定です。

亭主敬白

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ふるさとのお社(15)
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ふるさとのお社(15)
〜番外 伊勢神宮|欧の天女編〜
何ごとのおはしますかは知らねども
かたじけなさに泪こぼるる(西行法師)

ゴールデンウイークも終わり、みなさん如何お過ごしでしょうか?
長いお休みで天気にも恵まれ殊のほか楽しまれたことと存じます。わたくしも48会ゴルフコンペ(毎度ゥゥ・・)他、人吉まで日帰り温泉JRの旅に出かけたり(行きは熊本から蒸気機関車よ!)雲仙にミヤマキリシマを見に行ったり(ちと早すぎました)と往く春を堪能して参りました。堪能もタンノウ、毎度飲み過ぎで胆のうが悲鳴を上げております。
(けんおじ注:みーしゃん2010年5月14日の脱稿です。)

ということで今回は本家も本家の大本家、伊勢大神宮であります。
じつは昨年8月、日本人なら一度は行かんとイカンと前々から思っておりましたお伊勢参りに行って来たのでありました。

大阪から近鉄山田線で伊勢市駅下車であります。
今回時間はタップリ、お伊勢さんは内宮(ないくう)と外宮(げくう)に渡るその広大な社域を想定、一日かけての参詣を予定しておりましたのでその日は外宮前で前泊の旅程でありました。なんと言ってもお伊勢参りは外宮から!これはすでに日本人の常識であります。(この常識がそうでもなかったことは徐々に明かされていくわけですが・・・)
だがしかし、列車を降りてビックリ。
あらま!なんとも近鉄の駅舎の小さなことよ。駅員さんに外宮に行くにはどうするの?と聞けば狭い幅の小道を線路に沿ってしばらく進み右に曲がって線路を渡れば参道よと教えてくれたけど、そんなんで莫大な数の参詣客を捌ききれるの?
と怪しみながら歩いていくとJR伊勢市駅前に出ました。がこちらの駅舎も思ったほど大きくはない。ただし(南口)駅前広場は結構広い。広いけれどガランとしてる。と思ったら空き地が多くて見通しがいいのね。聞けばジャスコとか三交というデパートがいずこも同じ秋の空、郊外の大型店に押されて撤退したという。駅前商店街もガラガラ、というか廃墟化しておりました。
そんな商店街の一角にあるビジネスホテルが今夜の宿。1泊素泊まり4000円也の清潔というクチコミを信じてネットで取りましたが、ホテル1階の花屋も閉鎖かつ2階ロビー前の喫茶店も閉鎖。・・まあこんなものでしょう。
チェックインが終わり近所をぶらぶらするうちに早くも晩飯時。腹は減ったが、さあ困った。店がない!・・・しばらく探すうちに汚い構えで料理なんでも有りのスタンド割烹やっと発見。地元の方で結構賑わっている様子だけどとにかく汚い。パス。で、夜は更ゆく・街は(真に)暗くなるということで最終的に入った店が結局チェーン店の『庄や』でありました。これが地物のメニューなんかもあって結構おいしかったです。
ということで外宮前でお泊りでしたら、ビジネスホテルサンドーで素泊まり・『庄や』で晩飯、これ結構オススメです。別に泊まるほどの場所でもないと思われる方、大正解ですけど。

翌朝5時の外宮前広場であります。

早朝の神域はさぞ森閑として・・・と思いきや、この時間ですでに朝のお参りに見えたご近所の方が沢山いらっしゃいました。

これがもったいなくも伊勢神宮外宮(豊受大神宮)拝殿であります。

御祭神は天照大神の御饌津(みけつ)神=食物を差し上げる神であり穀物神としてまた農業を初め諸産業を司る神である豊受大神であります。
創建は雄略天皇(在位456年〜479年。ワカタケル大王として考古学的に実在が確認できる最古の天皇だそうな)の22年。
天照大神が天皇の夢枕に現れ「私一人では寂しい。また不便で食事も安らかにできぬ。丹波国比治の真名井に鎮座する等由気(とゆけ)神を呼び寄せ給え。」というのでこの地にお遷(うつ)ししたといいます。とは言え記紀にこの神様は詳しくは登場しません。イザナミが火の神カグツチを生んだがために病み衰えやがて身罷る直前に彼女のオシッコから生まれた神ワクムスヒの子とあり、またニニギの天孫降臨のとき外宮(そとみや)度会(わたらい)に天降った神であるということが古事記に書いてあるだけであります。

『丹後国風土記』逸文(一部分だけしか伝わっていない文)にある話。
むかし比治山の山頂にある真名井という泉に8人の天女が舞い降りて水浴びをしておりましたげな。それを偶然見ていた老夫婦が松の木に掛けてあった一人の天の羽衣を隠してしまいます。水浴びを終えた7人の天女は天に帰っていきますが、一人の天女だけがあとに残されました。

悲しみに沈む天女に老夫婦は言いました。「わし等には子供がいないのじゃ。どうかわし等の娘になってくりゃれ。そしたら羽衣は返してやるがじゃ。」
「私だけが取り残されてしまいました。今さら衣を着ても天界へ戻れません。もうこうなってはここに置いて貰うほかありませんのでどうか衣をお返し下さい。」

疑う老夫婦でしたが天界の者が嘘は吐くまいと天女の言葉を信じ渋々衣を返しました。(なんとも身勝手な人間どもでありました)
それから10年が経ちました。天女は万病に効くという霊酒を醸しこれが飛ぶように売れて老夫婦は大金持ちになりました。かたや天女は永年塵多き人界に住んだがために病み衰えてしまいます。邪険に思った老夫婦は今までの恩も忘れてとうとう天女を追い出してしまいました。(ということになっておりますが斯くも非人情に放逐するのには何か他に訳があったのではないでしょうか。たとえば成金になって欲に狂ったジサマの天女に対する邪な思いにバサマが嫉妬したとか・・とにもかくにも鬼のようなジサマバサマでありました)

嘆き悲しみ彷徨ううちに奈具の村に辿り着いた天女は「心なぐしく(やすらかに)なりました。」と言ってようやくこの地に落ち着き暮らしたということです。

この天女が豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)でありこの神は豊受大神と同一神と見なされているそうです。

神明鳥居のそばの立て札には「これより撮影をご遠慮下さい」とあり、また衛兵詰所みたいなボックスもあってなかなか物々しい。拝殿の先には正殿(本殿)があるはずなんですが布が垂らしてあって見えないようになっております。
なぜ本殿が見えないのか・・見せてもらえぬのは、何故なのでしょうか・・?

尚、写真には写っておりませんが左手に3年後の式年遷宮のための空き地があります。3年後の平成25年には今のこの場所は更地となって新殿予定地となり、23年後にまた寸分も違わず建て替わるのでありました。

ということで見せてもらえぬモヤモヤを抱えたまま伊勢神宮内宮に向ったのであります。次回に続く。

亭主敬白

でありますから正殿の姿はどこかで探して写真で見るくらいしかできません。で突如、伊勢神宮とは天皇家が祖神をお祭りするという非常にプライベートなお社であるということに思い至ったわけであります。


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ふるさとのお社(14)
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ふるさとのお社(14)

〜伊勢天照御祖(みおや)神社◆

みつみつし久米の子らが垣下(かきもと)に
植えしはじかみ口ひひく
吾は忘れじ 撃ちてし止まむ
神風(かむかぜ)の伊勢の海の生石(おいし)に
這ひ廻(もとほ)ろふ細螺(しただみ)の
い這ひ廻り 撃ちてし止まむ

みなさんその後いかがお過ごしでしょうか?
今年もとうとう桜の季節がやって参りました。(※みーしゃん2010年4月1日の脱稿です。)

今年の開花は早かったですね!お彼岸なのにお花見が出来るなんて・・・。これじゃ4月になって桜舞い散るなかで入学式なんて無理みたいですね。

まァ花冷えで一日でも長く花を楽しめることを祈りつつ、今回は大石町にあるもう一つの伊勢天照御祖神社をご案内いたします。が、その前に。

記紀によればアマテラスの孫で日向(ひむか)に天降ったニニギはオオヤマツミ(大山祀神)の娘である(桜の)花が咲くように美しいコノハナサクヤ姫を娶ります。

このときオオヤマツミは姉のイワナガ姫もニニギの元に送りますが容姿の醜いイワナガ姫を嫌ったニニギは彼女を父親へ送り返します。

なんとモッタイナイ!かつ無礼な!・・・案の定オオヤマツミはそれを怒り「愚かな。イワナガ姫を添えたのは天孫の命がイワのように永遠にナガらえるようにと誓約(うけい=占い+誓い=たとえば嘘ついたら針千本飲む、みたいな)を立てたからで、天孫はコノハナサクヤという名の如く盛んではあるが儚い寿命しか保てないであろう。」と告げたのでありました。

コノハナサクヤ姫はニニギと一夜臥所(ふしど)を共にしただけで身籠ります。ニニギは、一夜で身ごもるなどこの子は私の子ではない、国津神の子であろうと疑います。なんとも無神経なニニギに対し驚き悲しむ姫は疑いを晴らすため、天津神の子であれば何があっても無事に産めるはずと誓約(うけい)をして産屋に火を放ちます。さすがアッパレな九州女でありますが、むろん無事に3柱の御子神を産みます。

火が盛んに燃えている時に生まれたのがホデリまたの名を海幸彦、火勢が弱くなった時に生まれたのがホスセリ、消えた時に生まれたのがホオリまたの名を山幸彦と申しました。

さて海幸彦と山幸彦は長じて互いの幸を交換しようという話になりそれぞれ狩と釣りに出かけますが山幸彦は兄の大事にしていた釣り針を失くしてしまいます。代わりの針をあげようとしますが海幸彦はあの針しか駄目だと言って納得しません。

山幸彦が浜辺で途方にくれていると塩土老爺(しおつつのおじ)が現れ山幸彦を篭に入れて竜宮城へ案内してくれました。そこでワダツミ(綿津見神=海神)の娘トヨタマ姫(豊玉姫)と結ばれ、竜宮城であっという間に3年過ごしたあと故郷が懐かしくなった山幸彦は失くした釣り針を探し出してもらい頑なな兄を懲らしめるという玉を土産に陸へと戻りました。(まるで浦島太郎じゃん、だから玉手箱よ)

このときトヨタマ姫は身篭っていると山幸彦に告げ、海の荒れた日に浜辺に産屋を作って待っていて欲しいという。はたしてトヨタマ姫は妹のタマヨリ姫(玉依姫)を伴ってやって来ます。ところが絶対に産屋を覗かないでというトヨタマ姫の懇願に背いて山幸彦は部屋を覗いてしまいます。そこには八尋和邇(やひろのわに)の姿がありました。(またしても覗いてしまったのね、イザナギの昔から変わらない男の性かしらん)恥をかかされたと怒ったトヨタマ姫は海と陸の境の道を閉ざし竜宮城へ帰ってしまいました。

そのとき生まれた子がウガヤフキアエズであり、ウガヤフキアエズと叔母に当たるタマヨリ姫との間に生まれたのがカムヤマトイワレヒコ(のちの神武天皇)であります。一方、山幸彦と諍いを起こした海幸彦は例の玉のお陰で弟に臣従し、こちらは南九州の隼人の祖になったといいますが、一説に拠ればこの隼人らは後の神武天皇の軍団である久米部になったといいます。

と、ようやく大石町の伊勢天照御祖神社の御祭神の正体に近づいて参りましたが、今しばらくお付き合い下さい。

古事記に拠れば、神武天皇(神日本磐余彦=カムヤマトイワレヒコ)はこの葦原中国(あしはらのなかつくに)を治めるにはどこを都にしたら最もいいか兄の五瀬命(イツセノミコト)と相談。東の方がよかろうということになり日向(福岡県糸島の日向という説もアリ)を発ち筑紫を経て豊の国宇佐(宇佐神宮のあるところ)から安芸(広島)へ入り大豪族が治めているという吉備(岡山)の国へ。いわゆる神武東征でありますがこの間およそ16年かかっております。

で、いよいよ難波(大坂)上陸という段になるところでヤマト土着のナガスネヒコ(長髄彦)軍と会戦。兄のイツセが負傷しあえなく撃退された神武軍は退却。「われらは日の神の御子であるから日に向って(東へ)進むのはよくない。日を背にして(西から)戦おう」と士気の衰えたるところを何とか鼓舞し木の国(和歌山)を廻る迂回策を採りますがここでイツセは亡くなります。熊野に入った神武軍はここでも苦戦しますがアマテラスと高木の神の加護により何とか苦難を乗り切り八咫烏(ヤタガラス=足が三本ある)の案内でようやくヤマト宇陀に入ります。

宇陀には兄迦斯(エウカシ)弟迦斯(オトカシ)という土着豪族の兄弟がおりました。エウカシは神武の武名のなかなか盛んなるを聞き一計を案じます。神武の軍門に降ったと見せかけ宴会場に引き入れた神武を吊り天井を落として圧殺しようという計画でした。この計画を兄から聞かされたオトカシは密かに神武に伝えます。宴会場の外までエウカシに案内されてきた神武は「お前が先に入ってみろ!」と、蹴り入れられたエウカシは哀れ落ちてきた天井に押し潰されてしまいます。弟に密告されるなんてヒドイ話ですね。

毎度思いますがこの古い物語のなかで、兄弟などペアの話が多いのですがどうしてこうも兄弟仲が悪いのでしょうか。そのうえ必ず(征服者側から見て)愚兄賢弟=旧態依然の兄と変革を望む弟・・ってのがお決まりのようです。それだけ支配層の中で並存していくのが厳しかったんでしょうかね。

神武軍は次に忍坂に向います。ここで土蜘蛛(先住民)のヤソタケル(八十建=勇猛な戦士達の軍団)を騙し討ちにして皆殺しにした後いよいよナガスネヒコとの決戦であります。

このとき冒頭に挙げたいわゆる久米歌が神武軍の戦意を鼓舞するために歌われたのであります。

「勢い盛んな久米部の兵士らが真垣の下に植えたハジカミの実は口がヒリヒリするほど辛いぞ。俺たちは敵から受けた痛手を忘れるものか。撃って撃って敵が死ぬまで戦いを止めないぞ」

「神風の吹く伊勢の海に生い立つ石の廻りを這い回るキシャゴ(巻貝)のように敵の廻りを這い回り這いまわり、撃って撃って敵が死ぬまで戦いを止めるものか」

という意味だそうですが、ご存知のようにこの「撃ちてし止まむ」というフレーズははるか後世、太平洋戦争中敗戦色も濃くなりつつある1943年(昭和18年)わが国の陸軍省が戦意高揚のため5万枚のポスターに刷って配布。「鬼畜米英」という熟語とともにまだ我らの記憶にも新しいところでありますね。

ところでナガスネヒコ(長髄彦)ですが、彼はそもそもここヤマトの王でありました。

ある時、天磐船(あめのいわふね)なるもので降り立ったのが饒速日(ニギハヤヒ)であります。彼は天孫と称し十種(とくさ)の神宝を携えていました。マレビト=来訪神として畏れかしこんだニギハヤヒは妹のトミヤス姫を娶わせます。つまりナガスネヒコとニギハヤヒは義兄弟という関係であります。

この先の展開はもうお分かりですね。

ナガスネヒコ軍と神武軍は激戦を繰り広げます。

なかなか決着がつきませんでしたがそのうちナガスネヒコ軍がだんだん優勢になってまいりました。そんな中、金色のトンビが神武の弓に舞い降りたのを見たナガスネヒコは使者を神武の元に送ります。

「わが土地に踏み入り、わが民を殺し、わがヒロニワ(家の土間)を侵すのは何者だ?」

「われこそは天孫(すめみま)、王の中の王。荒ぶる国津神を鎮め葦原中国を治めんがためここヤマトに都するがじゃ。とっとと国を譲るがじゃ。」と神武が言った、かどうか。

(この辺りわたくしの筆力が拙いせいもありますが、どう書いても天皇家に好意的に書けませんので多少省略してお届けしております。)

ナガスネヒコはこれに答えて「こちらに天孫はおられる。お前は偽物だろう」

で、双方の神宝較べが行われますが両方本物という結果になります。

ですが「そんなはずはない。天孫がお二人もいらっしゃるものか!」と言いつつナガスネヒコは戦いを続けようとします。

そのとき刃一閃。

唖然とした表情のままのナガスネヒコの首が飛びました。

「お待ちしておりました。ねじけた性質のナガスネヒコではこの国を治めきれません。アマテラスの天孫であるあなたにこの国を治めて欲しい。」と剣を納めながら言ったのはニギハヤヒ(一説にその子ウマシマチ)でありました。

ううう。ホントにそう書いてあるのよ。でもそんなんあり?

こうして神武は畝火の橿原に都し、第一代天皇として即位しましたそうな。

ニギハヤヒの正式な神名は『天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊』(あまてるくにてるひこほあかりくしたまにぎはやひのみこと)と申し上げますが、どうもナガスネヒコが祀っていた太陽神であったようです。はやい話つまりはアマテラスの原型かと。

ちなみに、ニギハヤヒは物部氏の祖神であるそうな。

ということは神武東征以前のヤマトの王は物部氏系ということになりますね。

ということで長々しく書いて参りましたが、大石町の伊勢天照御祖神社の御祭神はじつにこの『ニギハヤヒ』でいらっしゃいました。たぶん氏子のみなさんも御存知の方はそう多くないかも知れません。というのも伊勢天照御祖(イセアマテラスミオヤ)と名付けられた神社でありますが、以上のような経緯であれば神社名は単に『天照(アマテル)神社』であると愚考する次第です。

も一つちなみに、北九州遠賀川流域には物部氏がかなりたくさん住んでいたそうです。従ってここ久留米にニギハヤヒをお祀りする神社があっても別段不自然ではありませんね。

ということで今回はおしまい。

また次回をお楽しみに。

花見の次は何を肴にして宴会しましょうか?!

亭主敬白

| けんおじ | みのるの古文書談義 | 20:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ふるさとのお社(13)
ふるさとのお社(13)

〜伊勢天照御祖(みおや)神社 

この神酒(みき)はわが神酒ならず倭(やまと)成す
大物主神の醸(か)みし神酒 幾久(いくひさ) 幾久 (崇神天皇)
みなさんその後お元気でしょうか?
立春を過ぎ梅もほころんで随分と春めいてきましたが、みなさん風邪などひかずお変わりなく御活躍のことと存じます。
(※けんおじ注:みのる2010年2月19日の脱稿です。)
さて今回は大神宮(伊勢神宮)の分社であるところの伊勢天照御祖神社であります。じつは市内に同名の神社が2社あり、由来などを調べていくうち日本の神話の謎と申しますかそのあまりの面白さに茫然自失、何をどう書けばいいのか逡巡しておりました。で、この稿のお届けが遅くなりました。
まずは、高良大社の摂社(本社の境内にあり御祭神と深いつながりのある社)である天照御祖(あまてらすみおや)神社であります。御手洗池を渡り二の鳥居をくぐって登山道を200メートルばかり登ったところに鎮座されております。御祭神はむろん天照大神。左右には八幡宮、天満宮をお祀りしております。
高良山1

またまた久し振り高良山に登りましたが(たった200メートル)やっぱりきつかったです。
高良山2

天照大神は御存知のようにイザナキ・イザナミの神からお生まれになりました。
『古事記』によれば、天地が現れ動きはじめた時まずアメノミナカヌシ(水天宮祭神)・タカミムスヒ(高良山麓の高木神社祭神)・カムムスヒの造化3神が出現、ムスヒの神のエネルギーによって世界は生成されていくうちにイザナキ・イザナミが出現してクラゲのごとく漂うだけの地上を整えるために天降ります。2神が合い交わって国生み神生みの途中火の神カグツチを出産したため死んだイザナミを追って根の国(黄泉の国)に行ったイザナキは、イザナミとの約束を破りウジのたかる彼女を見て怖くなり葦原中国(あしはらのなかつくに)に逃げ帰ります。イザナキが穢れを祓うためミソギをするなかでアマテラス、ツクヨミ、スサノオの3神が出現します。
これが『日本書紀』になると少し違って、中国風の陰陽思想を土台として、はじめに混沌がありその中から陽と陰が分かれ清く明るいものは上に昇って天となり重く濁ったものが滞って地となり、陰陽の気入り混じって男女神が出現し、それより生まれた男神イザナキと女神イザナミが合い交わって大八洲(おおやしま)国と山川草木を産んだのち、この世界の主宰者たる者を創ろうとしてアマテラス(天照)、ツクヨミ(月読)、ヒルコ、最後にスサノオを産みました。
「合い交わって」と御紹介しましたが古事記には初めて国生みする時このように書かれております。
「是に(イザナキの命)其の妹(いも)イザナミの命(みこと)に、『汝が身は如何にか成れる』とといたまへば、『吾が身は、成り成りて成り合わざる処、一処あり』。イザナキの命詔(の)りたまはく、『我が身は、成り成りて成り余れる処、一処あり。故(かれ)、此の吾が身の成り余れる処を以って、汝が成り合わざる処に刺し塞ぎて国土を生み成さんと以為(おも)ふ。生むこと奈何(いかに)』とのりたまへば、イザナミの命『然善(しかよ)けむ』と答へたまひき。ここにイザナキの命『然らば吾と汝(いまし)と是の天の御柱を行き廻り逢ひて、美斗能麻具波比(みとのまぐはひ)為(せ)む』とのりたまひき。」と、これは有名なわが国史上初の口説きの場面であります。
ところがこのあと中国の儒教(男尊女卑)の影響か、はたまたヒルコの出生の謎をここで説明するためか次のように続いております。(以下現代文)
「このように約束して『(天の御柱の周りを)汝は右より巡り逢え。我は左より廻り逢おう』とおっしゃって決め終わって廻る時、イザナミの命、先に「まあ、なんてよい男なんでしょう」と言い、そのあとでイザナキの命『なんとよい乙女なんだろう』と言いそれぞれ言い終わった所でイザナミの命に『女が先に言うのはよくない』と告げられたが、そのまま合い交わって生んだ子が水蛭子(ヒルコ)あった。この子は葦舟に入れて流した。次に淡島を生んだがこの子もまた子の類に入れなかった。」
すなわちヒルコは古事記では2神の第1子であったのですが、かわいそうに蛭のごとく骨無しのぐにゃぐにゃでありましたので舟に入れて流したそうですがその舟が漂着したところが西宮(兵庫県)で、西宮神社の祭神がヒルコ神=蛭子=エビス=恵比寿様でありますそうな。
一方、日本書紀の国生みの項では「一書に曰く、」として次のように2神の初めての“合い交わり”を紹介しております。
「遂に合交(みあはせ)せむとす。而(しか)もその術を知らず。時に鶺鴒(にはくなぶり)有りて、飛び来たりて其の首尾(かしらを)を揺(うごか)す。二(ふたはしら)の神、見(みそなはし)て学びて、即ち交(とつぎ)の道を得つ」
私事で恐縮ですが、毎朝犬の散歩で近くの公園などを廻るのですがそこにある調整池に近頃カワセミが住み着いております。初めて見た時はビックリしました。なにせ自然のなかで見るのは文字通り初めてでしたので、その美しさにしばし見とれてしまいました。で、思い出したのが鶺鴒(せきれい)。即座に日本書紀の一場面を連想いたしました。
となると不届き千万にも斯様な江戸川柳に辿り着くのでありました。
 鶺鴒は一度教えてあきれはて
 鶺鴒の曰くさてさて御器用な
 そこまでは教えていぬと鶺鴒言い
さてもう一社のほうは大石町にありました。ですが御祭神が違っていたのであります。そは一体如何なる神様か?また長くなりそうなので次回にお送りいたします。
ではまた次回をお楽しみに。
亭主敬白
| けんおじ | みのるの古文書談義 | 10:56 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ふるさとのお社(11)
ふるさとのお社(11)

〜天満宮 
 夕されば野にも山にも立つけぶり
     嘆きよりこそ燃えまさりけれ (菅原道真) 
いやはや月日の経つのは早いものでもう12月。2009年もはや暮れようとしておりますが、みなさんその後お変わりありませんでしょうか?
この一年を振り返り如何な年であったか総括する頃となりました。長いようで短かった一年でしたがみなさんにとってよい年だったでしょうか?
人生五十年と詠われて感無量の50歳のときよりすでに5年過ぎております。
多めに見ても残された年月はこの世に生を受け過ごしてきた春秋よりズンと少なくなっております。それでもあと30年か40年か・・・はたまた1年か明後日か(誰にも分かりませんが)、分かりませんけれどもいつ向こうに旅立ってもおかしくない年頃になりました。全くいつの間に、なんでしょうかね。

五木寛之風に申せば、我々は只今林住期(りんじゅうき)なのだそうな。
すなわち、24歳までの学生(がくしょう)期、それより49歳までの家住期、しかして75歳までの林住期、とその後の死ぬまでの遊行期のうち、わたしたちは林間に分け入って瞑想し“自分の人生を振り返り本当にやりたかったのは何だったのかを問いかける”時期げなです。で、遅かれ早かれ生計稼業から足を洗い、(しがらみを避けるため)独りになって家住期の蓄積をバネにセカンドステージへ羽ばたくべき時げなです、と。
子供らが巣立ち仕事の区切りも見えてきた昨今、理想的にはそうあるべき時ではありますが、ところが我が人生に対するこの焦燥と、世間に対するこの倦怠は一体何なのでありましょうか? 
相変わらず煩悩の海に漂いひたすら喘いでいるだけなのか、ではあるけれど今しばらく懊悩の深みに沈みつつ生臭い息の切れるのを待って一気に浮上する機会を待つのか、或いはこのまま煩悩に呑まれて老残の淵に沈没していくのか・・・いまだ先途を見出せず惑いっぱなしの筆者なのでありますので、このままではまだまだ林住期は訪れそうにありませんよなあ。
 
煩悩といえば『今昔物語集』巻20に興味深い話が収められております。大層ショッキングな話なのでみなさん御存知かとも思いますがご紹介しましょう。ちと長いけど。
尚、ヒロインの本名は藤原明子(あきらけいこ)といい文徳天皇の女御であり優れて美貌でしたが父の藤原良房(皇族以外で初めて摂政となりのちの藤原摂関政治のもとを作った)の専横を嫌う天皇は更衣の紀静子を寵愛。静子とのあいだに出来た惟喬親王に帝位を譲ろうとお考えでしたが良房の圧力もあって明子との間にもうけた惟仁親王(のちの清和天皇)に譲位されますが、その直後急死。良房が弑(しい)奉ったとの説もあります――そういう状況を前提にお読み下さい。
「今は昔、染殿(そめどの)の后といって太政大臣藤原良房の娘で清和天皇(在位858〜876年)の御母上に当たる方がいらっしゃった。飛びぬけてお美しい方であったが常に物の怪に悩まれておったので世上評判の霊験ある僧どもを召し祈祷させたが一向に効き目がなかった。
あるとき葛木山(かづらき)の頂にある金剛山に住む聖人(しょうにん)が修法(ずほう)によって鉢を飛ばし食を得、瓶を飛ばし水を汲むといった験力あらたかという評判を聞こし召した天皇はこの聖人を都へお呼びになり聖人はその度御辞退申し上げていたが度重なる勅命にそむきがたくついに参上することになった。
さて御前で加持祈祷すると后の侍女の一人に何かがのり移り狂い泣きわめく。聖人まますます祈祷すれば女は縛られたようになりそのうち女の懐から老孤が飛び出しクルっと転がると倒れて逃げることもできずにいる。聖人これを捕えワルサをしないよう呪した。大臣これを見て喜んだのは言うまでもない。
后が一両日中にすっかり快復したのを大臣は大いに喜んで聖人を召し、しばしこちらに留まってくりゃれと慰留する。これがいけなかった・・・。
仰せに従いしばらく御殿に滞在する聖人であったが、時あたかも夏のことにて后は単衣(ひとえ)を召していたところ風がさっと吹いて几帳の垂れ絹がヒラリと翻った折ちらりと后を垣間見た瞬間、
(ここのところ原文)聖人タチマチ心迷ヒ肝砕テ深ク后ニ愛欲ノ心発(おこ)シツ。
けれどもどうしようもないのでただただ悩んでいたが、胸の中は火を焼く如く面影がちらついて片時も忘れることも出来ず、ついに分別を失って人目のないのを確かめ御張(みちょう)の内に入って、
后ノ臥セ給ヘル御腰ニ抱キ付キヌ。后驚キ迷テ、汗水ニ成テ恐(お)ヂ給フト云ヘドモ、后ノ力ニ辞(いな)ビ得難(えがた)シ。然(しか)レバ、聖人力ヲ尽シテ掕(りょう=凌)ジ奉ルニ、
女房達これを見て大騒ぎとなった。この時たまたま勅命で后の病の治療に訪れていた当麻鴨継という侍医が騒ぎを聞きつけ御張から出てきた聖人を捕え天皇に伝える。天皇大いに怒り給いて聖人を牢獄に繋いだ。
牢獄に入れられた聖人は一言も物言わず天を仰ぎ泣く泣く誓うに“すぐに死んで鬼となり、后がこの世にいる間に思い通りに后とねんごろになろうぞ”
驚いた大臣は天皇に奏上すると聖人を許し山に返しなされた。・・・つづく」

佳境に入って参りましたが長くなりますのでこの話の続きは次回正月号でお届けします。さてさて本題です。
今回は天満宮であります。天満宮(天神)は全国に1万余社あり、稲荷(32,000社)、八幡(25,000社)、伊勢(18,000社)に次いで4番目の多さを誇っております。
櫛原天満宮1
櫛原天満宮2

通町から寺町を北に抜けると櫛原天満宮であります。もちろん祭神は菅公、菅原道真であります。創建は文治5年(1189年)と伝えられております。室町時代の騒乱時に炎上し440年ほど記録が途切れますが元禄5年再建。天明期の久留米藩古地図にはこのあたり一帯に大きな社地を占めております。
下は旧三井郡北野町にある北野天満宮の一の鳥居とそのすぐ側にある同窓生○○君の経営する○○△クリニック。 
田中君には高血圧でお世話になっております。
北野天満宮1
北野天満宮2

立派な神社でありますね。慶長12年(1607年)の銘のある二の鳥居をくぐり赤い欄干の太鼓橋を渡ると参道の先に渡り廊下を左右に従えた楼門があります。社伝によれば天喜2年(1054年)の創建。京都北野天満宮の神領(荘園)の鎮守社として分霊されたもので、祭神は菅公と武内宿禰・住吉大神とありますが高良大社との関係であとの2神は後年合祀されたものと思われます。
ご存知のように道真公は、藤原氏の専横を快く思われない宇多天皇の異例の抜擢を請けて重用され次の醍醐天皇の御世に右大臣にまで出世しますが、藤原時平の讒言により失脚し901年大宰府に流され2年後に彼の地で亡くなりました。一説によれば、菅公の遺骸を載せた牛車がそこまで来てどうやっても牛が動かなくなった場所に埋葬されたということですが、そこがただ今の太宰府天満宮であり、ために牛は管公の使いと認知されて全国の天満宮の境内には臥牛の像が設けられ(上の櫛原天満宮の写真にもありますね)撫でれば御利益があると庶民の崇敬を集めております。
ところで『北野天神縁起』(1200年頃成立か)によれば、大宰府で道真が憤死して間もなく道真の怨霊が比叡山座主の尊意の元を訪れて懇願します。
「濁世に生まれ讒言のため無実の罪を着せられ都を遠く追われました。悔しさの余り死して雷(いかずち)となりました。これより都に参り報復するつもりです。すでに梵釈冥官(梵天や釈迦や閻魔王)の許しも得ておりますがあなたの法力には敵いません。どうか平癒の勅命であっても内裏へは上らないで下さい。」
「天下はすべて王土です。勅命が3度に及ぶなら拒むことはできかねましょう。」
さっと顔色の変わった道真の怨霊に、尊意は喉が渇いていらっしゃいましょうと石榴(ざくろ)を勧めます。怨霊は石榴にかぶり付くと立ち上がりペッと妻戸に吐き出すや柘榴の実は炎に変わりパッと燃え上がり、見る間に扉が2,3尺も焼けてしまいます。が尊意は少しも慌てず印を結ぶとたちまち炎は消えてしまいました。
まもなく都は黒雲に包まれ昼間でも夜の如く闇の中を稲妻が飛び交い雷鳴は都中に轟きわたり、あちこちに落雷が起きます。人々は上下を問わず逃げ惑い頭を抱えあるいは床下へと逃げ込みました。
さて尊意への勅命はついに3度に及び、比叡山を下りた尊意は内裏へと向います。おりしも鴨川は氾濫し、溢れた川の水が息巻く風に都の家並みを洗うがごとく荒れ狂っておりましたが、尊意が内裏へ向かう道筋だけは水が両側に屏風のようにうず高まって堰止められ尊意一行を通したのでした。まるで割れた紅海を行くモーゼみたいですね。
内裏で祈祷する尊意の法力によりたちまち都にかかる暗雲は嘘のように晴れ都に静寂が戻ってきます。がしかし、尊意の法力もここまででありました。
この後内裏や洛中では怪異現象が続発します。そんななか、
 908年、道真に恩を受けながら裏切った藤原菅根が雷に打たれて死亡。
 909年、時平39歳で病死。
 913年、時平と結託し道真を追い落とし右大臣となった源光、
     溝に転落溺死。
 923年、醍醐天皇の皇子で時平の妹が産んだ皇太子保明親王21歳で急死。
 925年、時平の娘が産んだ皇太孫であり次期皇太子の慶頼王5歳で病死。
 そして930年6月26日、内裏清涼殿を落雷が直撃しました。この日の午後5時ごろ雨乞いの相談をしていた十数人の公達・侍士のうち、藤原清貫が胸を裂かれ平希世は顔を焼かれ、それぞれ即死。近衛の美奴某は髪を焼かれ後日死亡。紀某は腹を、安曇某は膝を焼かれ悶え苦しんだといいます。醍醐天皇が受けた恐怖と衝撃は大きくドッと床につかれ、尊意が連日に渡り加持祈祷をするも回復せず9月22日御譲位、29日御出家その日のうちに崩御されました。
没後年々歳々菅公は神通力、いな呪力を高めていったと言うべきか。
このあと菅公の怨霊が天神信仰や御霊信仰と結びついて学問の神として天満宮に祀られるようになった経緯はまた次回の天満宮△任完篤發い燭靴泙后
それでは、今年も一年間お付き合い頂きありがとさんでした。佳いお年をお迎え下さい。

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| けんおじ | みのるの古文書談義 | 13:03 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |