兼定興産社史 (10)農協への消石灰への転換のお願い
昭和40年代に入り、山口に大きな石灰メーカーがあると言うことで、美祢の日本石灰工業所へ行き取引を開始します。この時の日本石灰工業所では製品バランス的に消石灰が過剰にできており販売に困っていたようです。
早速肥料用消石灰として販売することを決めました。
当時の農業用石灰は、福岡県では生石灰が常識でした。生石灰は湿気を含むと体積が大きくなり、包装している容器が破れてしまいます。そのため保管が効かず農協への納品に時間がかかったりして迷惑を掛けていました。この点、消石灰は膨張することなく袋の破損もありません。
そこで、久留米市農協(現在のJAくるめ=久留米市農業協同組合)を除いたその他の農協(現在のJAにじ=にじ農業協同組合;にじ農協)へ生石灰から消石灰への転換をお願いして、日本石灰工業所の消石灰を販売し、即納体制を高めました。

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| けんおじ | 創業60周年 兼定興産社史  | 17:21 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
兼定興産社史 (9)珪カルの販売
昭和30年代は高度成長が始まる時代です。この頃製鉄所も高度成長を始めています。製鉄所は副原料として大量の石灰を使用します。そして副産物として珪酸と石灰に富むスラグが発生します。このスラグを冷却粉砕したものが珪酸苦土石灰(=珪カル)です。
当社はこの珪カル販売に目を付けました。
生石灰は秋によく売れる肥料ですが、珪カルは春によく売れる肥料です。それまでの売上はほとんどが秋に集中していましたが、春にも売れる肥料を手にすることにより経営の安定性に貢献することが出来ました。当初「関電珪カル」を販売していましたが、後に八幡製鉄系の清新産業の珪カルを販売することになります。
珪カルは当初、久留米市農協や田主丸・吉井・浮羽農協、光友農協などの単協(県単位の農協ではなく、地域単位の農業協同組合のことです。)へ直接販売をしていました。
しかし販売が順調になると又しても県農協(福岡県購買販売農業協同組合連合会)が直接メーカーと契約してしまい商権が無くなってしまいます。昭和52年に住金小倉鉱化が製造を開始するまで5年以上珪カルの販売が出来ませんでした。

住金珪カル 表住金珪カル 裏


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| けんおじ | 創業60周年 兼定興産社史  | 12:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
兼定興産社史 (8)俵編み
大島石灰や天草石灰は俵入りでしたが、大きなメーカーの生石灰はバラ輸送です。そこで兼定商店は自社で俵に生石灰を詰めるようになります。
小郡の赤川地区の農家で俵を作って貰い、兼定商店ではその俵を小縄で編んで容器にします。秋肥の繁忙期にはバイトのおばさん達にお願いして俵を編んで貰いますが間に合いません。私の母や祖母、女性事務職員の堀江さん、たまには私も俵編みの手伝いをしました。
人夫さん達はこの俵に生石灰をスコップで入れて梱包します。
秋肥の繁忙期には注文が殺到して作業が追いつかず、結果的にお客様である農協(農業協同組合、現JA)に待って貰うことになりますが、お客様も待ってはくれません。朝作業を始めるときに、ちゃっかりとトラックを着けて出来た商品を持っていく農協もあったそうです。
それでも間に合わないときは、母や女性事務職員の堀江さんも俵に石灰を詰めたそうです。
この頃になると、長崎県経済連との取引が始まり、南久留米駅から貨車輸送で諫早方面へも輸送していました。
その後、容器は俵から塩袋の一空き袋に変わり容量も20kgに代わりました。
また戦後職が無く有能な人が兼定商店にも来ていただいていました。しかしこの頃になると世の中が安定してきて自分の進むべき仕事を見つけ、あるいは老境に入って、徐々に退職されていきました。
最初に職場長をしていただいた藤光町の国分さんは現在に至るまでの最高の職場長さんでした。この方は畳製造業になられましたが、海軍出身で背も高く頭もきれて非常に立派な方でした。現在は藤光町で悠々自適の生活をされています。
また大橋町農協で主任さんをされていた山川辰蔵さんも父に請われて仕事を手伝ってくれていました。山川さんは既に他界されましたが、その子供さん達と仕事(電気工事)やプライベート(自然保護)等で私とお付き合いさせていただいています。
| けんおじ | 創業60周年 兼定興産社史  | 20:25 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
兼定興産社史 (7)石灰メーカーの盛衰
昭和35年頃より以降になってくると、石灰メーカーの業界も徐々に変わってきました。
それまでの中小零細業者に代わって、大手資本の入った石灰メーカーが台頭してきます。これは高品位の消石灰が工業用に大量に使用され始めていたからです。(消石灰は生石灰に水を掛けて作ります。)
それに伴い、兼定商店の仕入先も少しずつかわってきます。
それまでの大島や天草の石灰メーカーからの購入は少なくなり、徐々に田川の麻生産業や同じく田川の位登産業からの仕入れが多くなってきます。この時代、日本の中長距離輸送の主役は国鉄の貨車輸送でした。一般に貨車輸送を行うときは通運業者に頼んで国鉄から貨車を借り荷物を貨車に乗せます。また荷物を引き取るときも通運業者に頼んで荷下ろしの手配をして「荒荷線」等に貨車を移動して荷を降ろします。弊社の場合着駅は南久留米駅が多く、一部久大本線沿線の駅でした。
貨車が着くと、直ちに貨車を空にして返却しないと国鉄から叱られます。(当時は国内輸送のほとんどが貨車輸送で、貨車をすぐに空にしないと次に貨車を借りる人が順番待ちをしていました。)また生石灰は危険物であるため速やかに移動しないといけません。そこで、国鉄に特別の許可を貰って駅構内の荒荷線横に仮置き倉庫を建て保管することにしていました。
保管手段としては、生石灰を積んだ貨車を駅へ着けて、生石灰をバラ積みしている貨車から人夫さん達が「しょうけ」に移し替えて、「しょうけ」を竿にさして倉庫に入れます。
石灰運び
(絵では2人で運んでいますが、1人で2つの「しょうけ」を天秤のようにして運んでいたかもしれません。)
またこの頃より日本窒素水俣などから出る副産的な生石灰や格外品の石灰が出てきます。
日本窒素水俣からの石灰は水俣にある金橋石灰から分けてもらっていました。


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| けんおじ | 創業60周年 兼定興産社史  | 21:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
兼定興産社史 (6)通運業へ進出そして撤退
この頃(昭和30年代初期)ポスト「農業用生石灰」の一つとして通運業へも進出しています。また昭和32年に兼定商店株式会社としての法人設立登記を行いました。
戦前、戦中の間に物流に絡んだ仕事をしていた父にとっては、通運業をするのが夢であったようです。いろんな人の力を借りて「大丸通運」を設立します。
当時は、「通運業」と「運送業」との格の差が顕著で通運の方が格上と見なされていたようです。
それはともかく、最初のお客様には、終戦引き上げ後に「百貨市場?」で友人になった野口隆康さんが社長をしてある九州段ボールへ段ボール原紙を運ばせて貰っていました。
また、出光興産については、福岡市荒津工場から岩国へ荷を運んでいました。(出光の担当者の顧客としての資質と、父の資質とがぶつかり、仕事は無くなってしまいます。)
最初は調子が良かったようですが、従業員教育が上手くいかず、従業員の使い込みや幹部職の質の悪さ等々で、立ち行かなくなります。父は赤字の穴埋めのために自宅を売り払い会社の借金を完済しますが、大丸通運はうやむやの内に他人へ移ってしまいました。
大丸通運を去るに当たり、有望で立派な事務職員については縁故を頼って再就職のお願いをしたようです。
総括すると、会社規模にあった社長の資質が不足していたのと、質の悪い従業員、その他の不幸とが重なり合っての経営不振だったと思います。
ともかく、私は諏訪野町の自宅(現在の餃子の大将諏訪町店の所)から現在の野中町へと小学校1年になる少し前に引っ越してきました。

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| けんおじ | 創業60周年 兼定興産社史  | 08:32 | comments(0) | trackbacks(1) | - | - |
兼定興産社史 (5)創業期 農業用炭酸苦土肥料の販売
ポスト「農業用生石灰」の模索を始めますが、やはりその周辺分野に方向性を求めました。
炭酸苦土石灰の販売です。この肥料は、石灰石の親戚であるドロマイトと石灰石を粉末にした肥料です。従来の生石灰には苦土(Mg)は含まれていませんでしたが、苦土石灰には含まれています。また生石灰と違い焼成していないので、製造コストが安くなります。土に解けづらいのが問題点です。)これで取りあえずの一息をついたようです。
大分方面から購入して直接農協(農業協同組合)へ販売していましたが、よく売れているのを見た県農協が直接大分のメーカーと契約してしまい商権が無くなってしまいました。
仕方ないので、田川のメーカーに販売保証をして生産して貰ったそうです。
この頃ポスト「農業用生石灰」の一つとして通運業へも進出しています。
またこの頃になると、周辺の同業者も淘汰されてきました。

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| けんおじ | 創業60周年 兼定興産社史  | 01:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
兼定興産社史 (4)創業期 農業用生石灰の販売2
昭和20年代の生石灰のお客様は産業組合でした。
産業組合というのは今の農協(JA、農業協同組合)の前身で、各村毎にありました。
現在のJAくるめ(久留米市農業協同組合、久留米市農協)でいうと、宮の陣、長門石、小森野、御井、・・・と言う具合に町単位に存在していました。
これらのお客様を自転車(後にはバイク)で回って注文伺いをしていたようです。
同業者も多く、久留米周辺に5〜10社位あったようです。
順調に生石灰販売を行っていたこの時期に、突然石灰が売れなくなります。
理由は、「石灰を使用しないようにせよ!」という農業普及所関係からの指導です。当時化学肥料の使用が増えていました。しかし強アルカリの石灰を使うと化学肥料と反応してアンモニアガスが出ます。また石灰を使用すると田畑の土が硬くなるとの理由です。
当時化学肥料に頼るあまり、畑に有機質の投入をしなかったのが原因ですが、このような理由で石灰販売量が激減します。
この頃から、ポスト「農業用生石灰」の模索が始まります。

位登請求書


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| けんおじ | 創業60周年 兼定興産社史  | 21:36 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
兼定興産社史 (3)創業期 農業用生石灰の販売1
どうして「石灰」の販売を考えついたのは分かりません。ただ出が百姓であり石灰になじみがあったことと、農業では毎回、毎年必ず石灰を消費するので安定性があると考えたのかもしれません。当時は肥料が統制品であったことも関係するかもしれません。
当時の多くの石灰メーカーがあり、そのほとんどが中小零細企業でした。しかし、兼定商店と比べると中小零細とはいっても資本力がある立派な会社です。兼定商店は主に八代市大島町の大島石灰から俵入りの生石灰を購入していました。また偶には天草の石灰も購入していましたが、天草の石灰は匁切れ(当時は尺貫法で約18kg入りでした。)が多かったようです。
当然の事ながら福岡県内の石灰メーカー(麻生産業、位登産業)からも購入していました。

請求書綴り

生産方法は、石灰石がある山の斜面に「縦釜」をつくり、上から石炭と石灰石を投入して焼き、下から焼けた生石灰が出来てくる簡単なやりかたです。
大島や天草で出来た生石灰は船に乗せ、有明海から筑後川を遡り、大善寺の黒田に着船します。(ちょうど黒田うなぎ屋さんが有るところです。)当時は満潮になると貨物船が上ってきていました。
船に積まれた俵入りの生石灰は、人夫さん達が陸揚げし、オート三輪車に移し替えて会社まで運びます。
福岡県内の麻生産業や位登産業からの生石灰は、包装されておらず、バラ積み貨車で国鉄南久留米駅迄輸送していました。
ちょうどこの頃(昭和32年)に法人として「兼定商店株式会社」を設立しました。


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| けんおじ | 創業60周年 兼定興産社史  | 13:22 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
兼定興産社史 (2)父、野下定次郎(初代社長)が創業するまで
父は貧農の次男として生まれました。
ただ少し学業が良かったらしく、旧制明善中学へ入学します。しかし貧乏百姓では学費を払うことがなかなか出来ません。明善中学の1年生1学期で学費未納のために退校します。
しかし5ヶ月の短い中学生生活の間に生涯に渡る友人を見つけたりして有意義な時間を過ごしたようです。
友人の中には、当時通町で果物商をしていた大津留商店の息子さん(後の久留米青果社長)や朝鮮総督府から引き上げて古物商をした田村勝さん、石田病院の院長で檀 一雄と交流のあった石田光明さん等がいます。
退校した後は、当時久留米で大手の活版印刷所であった高田印刷で文字組み作業のバイトなどをした後に、給仕として日本通運の久留米支店に臨時雇用された後に正雇用されます。
この頃に弥永忠太(元西久大運送社長)さんや日通の取引銀行で第一銀行久留米支店に勤務してあった赤司虎夫(中央製袋創業者)さん等に非常に可愛がって貰っています。

満州国建国、満州鉄道設立にともない、日通を辞し満鉄運輸へ入社します。この頃に簡単な中国語をマスターし物資補給に関する仕事をしているうちに現地雇用の物資補給担当の役人になったようです。
父は敗戦により内地久留米に引き上げましたが、現地雇用の役人ため国内での仕事を失い、数年間をやみ商売で生活します。
当初やみでは升や石炭を売ったりしていたようです。
この升で、正規の量が計れるという証に焼き印で入れていたマークが「兼定」の由来です。
この頃(昭和22年頃)に兼定商店という屋号を使い始めました。


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| けんおじ | 創業60周年 兼定興産社史  | 09:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
兼定興産社史 (1)ご挨拶
久しぶりのブログのアップです。
年度末になり、なんやかやでドタバタしています。
公共事業用の土木用の石灰は3月末をめどに毎日数10トン出荷していますし、役所の入札も始まりました。
兼定興産は1月末が決算なので決算報告も最終局面に近づいてきました。
エコアクション21もそろそろ仕上げないといけません。
屋上緑化「かるいちばん」「かるベラ」も忙しくなってきました。
春肥に向けての有機酸キレートカルシウム肥料「カル元気」も注文が少しずつ増えてきています。
と言うわけで、なかなかブログのアップができません。

先日、JAくるめ(久留米市農業、久留米市農業協同組合)管内の農家の友人が遊びに来て、「兼定興産は今年創業何年目?」という話題になり、改めて考えてみると今年が創業60年(会社設立50年)になることが判明しました。(仕事の忙しさにかまけて、完全に失念していました。)

会社の成長の大小は別にして、倒産することもなく今日まできたことは少しは自慢しても良いと思います。
また、いろんな人やいろんな会社に助けられて今日まで来れたのだと思います。
私の記憶や周囲の人の話を聞きながら、創業60年を振り返ってみたいと思います。

ただ先ほども言いましたように、只今年度末のドタバタの時期なので今日は「予告編」と言うことにして、これからボチボチと書いていこうと思います。

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| けんおじ | 創業60周年 兼定興産社史  | 20:37 | comments(0) | trackbacks(1) | - | - |