兼定興産社史(20) パウダー生石灰の発明 3.
当社社長は、日本石灰工業所へ旭化成との話を伝え、パウダー生石灰を製造するように求めます。当時の日本石灰の営業担当の課・係長は喜んでパウダー生石灰の製産を快諾しました。
しかし、当時の日本石灰は、美祢工場に最新鋭のドイツ式焼成炉「ベッケンバッハ炉」を10本を増設し、さらに関東に進出すべく、千葉にベッケン炉を建設する前後のことでした。資金がどれだけでも必要なときです。社内稟議が通らずになかなか実行しようとしません。当社社長はいらいらしながら、早く実行するように言いますが全然進みません。
旭化成へは進捗状況を伝えないといけませんが、口ごもった感じの話しかできません。
旭化成としては仕方ないので、大分地区の石灰メーカーへも協力依頼をすることになります。
大分地区の石灰メーカーが動き出したことで、やっと日本石灰も重い腰を上げることになります。当社社長は、「のろのろするから大分地区のメーカーに出し抜かれるじゃないか!」と言うと、担当係長は、「秀吉のように一夜城を作って巻き返します。」と言います。取りあえずお客様へ製造スケジュールを伝えて、弊社のパウダー生石灰を納入していただくことを了承していただきました。
そうこうする内に、大分地区のパウダー生石灰は生産が始まりましたが、兼定グループはまだプラント設置の途中段階です。日本石灰としてはメンツ丸つぶれです。日本石灰はプラントが未完成にもかかわらず、パウダー生石灰の生産開始をアナウンスします。
まだ未完成なのにお客様に工場案内をして、パウダー生石灰は他社のサンプルを自社製としてお見せすることになったと聞きます。
その後、程なくパウダー生石灰のプラントは完成し、兼定興産のパウダー生石灰は、日本石灰へのOEMと言う形で実現することになりました。
ただ、大分地区の石灰メーカーに先を越されたことにより、当初計画の半分の販売量になってしまいました。
ベッケンバッハ生石灰焼成炉

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| けんおじ | 創業60周年 兼定興産社史  | 21:50 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
兼定興産社史 (19)パウダー生石灰の発明 2.
パウダー生石灰の製造については、顧客の旭化成へは勿論のことですが、製造委託先へも製造の内諾を貰いながらの交渉でした。
旭化成の価格戦略や弊社が旭化成にお世話になれた経緯からして、大分地区の石灰メーカーに委託することは出来ません。
福岡県内には位登産業が外販メーカーとしてありますが、位登産業は旭硝子の子会社です。当時は旭化成と旭硝子は色々な局面で競合していました。また当時は、各グループ内からの調達がごく当たり前でした。(極端な話、宴会をするにも出てくるビールのメーカーがどこであるか、については各社ともこだわりがありました。)と言うわけで位登産業にも相談することは出来ません。実際のところ位登産業とは当時疎遠になっていましたので相談できる雰囲気ではありませんでした。
当然相談するメーカーは日本石灰工業所(現在の宇部マテリアルズ)に決定します。

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| けんおじ | 創業60周年 兼定興産社史  | 14:04 | comments(0) | trackbacks(1) | - | - |
兼定興産社史 (18)パウダー生石灰の発明1.
この当時、集塵生石灰はいろいろな工場で使用していただいていましたが、一番迷惑を掛けることになるのが旭化成延岡工場でした。この時旭化成は消石灰から集塵生石灰へとプラント施設を変更して、順調に集塵生石灰を使用していただいていましたが、順調稼働して1年位の内に集塵生石灰が無くなることになります。
弊社社長は、旭化成に事情を説明しつつ次の手だてを考えます。たぶん旭化成延岡にとっては、新たに構築しつつあった石灰の購買戦略が崩れることになります。この時は、旭化成の購買担当者でまだ30歳代だった川井氏も一緒になって悩んでもらったようです。父は悩んだ末に、「生石灰を微粉末にして、集塵生石灰や消石灰と同じ粉末にする。」ことを思いつきました。
当時の生石灰は、塊状や粒粉混合品しかありませんでした。また当時の粉はメッシュ(粒度)が荒く、とても消石灰のような60メッシュ・アンダー品は存在しませんでした。
生石灰を微粉にするためには、ミル(微粉砕機)が必要となり、電気代も高くなります。しかし、生石灰から消石灰にする消化工程は不必要で、高濃度のCaを提供できます。結果的には消石灰を使用するよりもコストが下がることが判りました。
この微粉生石灰の案を旭化成に提示すると、賛成してもらうことができ、全量購入の約束を頂くことが出来ました。


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| けんおじ | 創業60周年 兼定興産社史  | 21:17 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
兼定興産社史 (17)集塵生石灰の減少
弊社が集塵生石灰の販売ルートを確立して数年すると、YSK(太平工業石灰工場)は集塵生石灰を有効活用しようと企業努力を始め、ブリケットマシン(粉に強い圧力を加えて塊にする機械です。)を導入して通常の生石灰塊のようにする技術を確立しました。これにより太平工業の集塵生石灰が発生しなくなり、兼定興産は集塵生石灰を購入できなくなります。これ以降、集塵生石灰は住金小倉鉱化(現在の住金リコテック)だけになりました。
YSKの集塵生石灰が無くなるということは、弊社の集塵生石灰で作業をしていただいているお客様へ多大な迷惑を掛けることになります。
お客様へのご迷惑を回避すべく、また自社の権益を守るために、新たな取組を始めることになります。

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| けんおじ | 創業60周年 兼定興産社史  | 15:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
兼定興産社史 (16)旭化成延岡工場への販売
うまく下水用に集塵生石灰が流通するようになりました。
しかし、まだまだ集塵生石灰の発生が多く、更に拡販が必要です。先代社長(父)がサンプルを持って九州内を回っていたときに、消石灰専用車が旭化成延岡工場へ入っていくのを見つけます。
父はダメもとで、旭化成支社購買へ飛び込んだようです。
購買担当を目の前にして、
「生石灰の方が消石灰よりも成分が高い。消石灰と同じ粉である。」
と言いながら、アルミの灰皿に水を入れて、更に集塵生石灰を入れるとたちまち発熱して消石灰に変わることを実験して見せたそうです。

当時の化学工場では生石灰を使わずに消石灰を使うのが一般的でした。理由は生石灰は発熱するのに対して、消石灰は発熱しないので、安心して使用することが出来たからです。
しかし消石灰(Ca(OH)2)を購入するということは、水も一緒に購入していることになり生石灰(CaO)を購入するよりも結果的には高いコストでCaを購入することになります。
当時の旭化成延岡は大分地区の複数メーカーから消石灰を購入されていましたが、大分地区の石灰メーカーの結束力が強く、価格交渉では難儀されることもあったようです。
そのような状況の時に圏外の久留米から集塵生石灰の使用の提案をしたのが弊社でした。
旭化成購買担当者の方は、価格メリットと購買戦略の両面で兼定興産からの集塵生石灰を利用することを検討され、延岡各工場(火薬工場、レーヨン工場、ベンベルグ工場)の担当者と打ち合わせをされ、火薬工場、レーヨン工場への納入が開始しました。

ここに、出水製紙、福岡市下水処理場、旭化成延岡工場の安定的な集塵生石灰の使用顧客の確保ができ、弊社の工業関係石灰の礎が整うことになります。
後年は、住友金属小倉製鉄所の生石灰専業メーカーである、住金小倉鉱化(現在の住金リコテック)の集塵生石灰も一手に引き受けて、上記のレーヨン工場へ納品することになります。

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| けんおじ | 創業60周年 兼定興産社史  | 22:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
兼定興産社史 (15)福岡市下水処理場への販売
YSKの集塵生石灰の一手販売を引き受けたものの、一日の発生量は10トン以上になります。とても兼定興産一社で販売できる数量ではありません。
そこで熊本県内や福岡県内の複数の石灰卸業者へ分けてあげることにしました。
それでも集塵生石灰をさばききれません。
そこでこの集塵生石灰を弊社の工業関係のお客様へ出荷する努力を始めます。
第一に出水製紙に購入していただくことが出来ました。当時製紙業は酸性液剤の使用が多かったので、廃水処理ではアルカリで中和する必要がありました。それまでは消石灰を液にして中和していましたが、集塵生石灰を液にして消石灰乳液にすることを提案して合理化の一助になりました。
また当時(昭和48年ころ)は第1次オイルショックのころです。この時期は石灰焼成のための燃料も毎月毎月値上がりしていた時期です。当然、石灰の価格もものすごい勢いで値上がりしていました。
父はこの時仕事上のつながりで、三共有機の吉田忠幸社長にお会いすることが出来ました。
当時の三共有機は、福岡市の下水道汚泥の処理のシステムを作り上げ、市から汚泥を引き受けて有機酸汚泥肥料を生産していました。
当時の汚泥の脱水処理は、消石灰と塩化第2鉄で処理をしています。しかし、福岡市へ消石灰を納入している業者・メーカーはオイルショックで製造原価が上昇し、赤字になっているにもかかわらず、入札契約なのでなかなか中途値上げを認めてもらえない状況です。
そこで、吉田社長の推薦で脱水方法を消石灰から集塵生石灰へと転換をすることで、購入コストを抑えることにして、これ以降兼定興産の集塵生石灰が下水処理場へと納入されることになります。

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| けんおじ | 創業60周年 兼定興産社史  | 17:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
兼定興産社史 (14) YSK(八幡石灰化学)からの発生する副産石灰を販売する
昭和40年代は石灰業界にとっても高度成長の時代でした。また他の工業分野では様々な公害問題が顕著になっていました。
石灰メーカーでの公害問題はあまりありませんでしたが、作業環境問題や粉塵発生問題が生じてきました。
それまでの生石灰焼成施設では、粉塵問題をあまり重視していませんでしたが、この頃になると周囲に粉塵を出さないようにするために集塵施設の充実が図られるようになりました。特に焼成炉を回転して生石灰を生産する、「ロータリー・キルン」では粉塵の発生が多く、そのために集塵施設を充実する必要がありました。
八幡製鐵所(現新日鐵)構内で石灰専業メーカーとして稼働していた、YSK(八幡石灰化学;現在は太平工業に合併されています。)はロータリー・キルンで焼成していましたので、比較的早い時期に集塵設備を充実し、集塵紛として微細な生石灰を集めて粉塵対策を行っていました。
この集塵紛は生石灰の成分的にはあまり問題が無いのですが、完全な粉のために当時は利用することが出来ずに廃棄していました。
しかし何時までも廃棄することが出来ず、メーカーとしてもお手上げの状況で弊社に持ち込まれました。
この時の状況は、「生石灰の集塵紛の処理が出来なければ、生石灰の焼成もストップする。」と言う寸前でした。兼定興産は一手に処理販売を引き受けることになります。

八幡石灰化学(太平工業)

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| けんおじ | 創業60周年 兼定興産社史  | 20:23 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
兼定興産社史 (13)新社屋の落成と鳥栖工場建設
昭和44年の春に、弊社の裏にある綿再生工場から出火し、弊社の作業場兼倉庫及び事務所兼住居へと類焼被害を受けました。
倉庫は全焼、事務所は半焼してしまいます。倉庫に入れていたのは生石灰なので、水を掛けると発熱します。消防車が来て倉庫に水を掛けているのを父が必死で「倉庫には水をかけるな!」と言っていたのを覚えています。
後かたづけを早急に行い、その年に鉄骨スレート建ての倉庫を建て直しました。
事務所は約2年位応急処置をして使用しましたが、その後鉄筋2階建ての事務所を昭和45年に建設し、翠香園ホテルでお世話になった方々をお招きして落成を祝いました。
その後、鳥栖の商工団地予定地横に土地を取得して昭和50年8月に鳥栖工場を建設します。
これに乗じて、日本石灰工業は弊社鳥栖工場敷地内に石灰サイロを設備し、佐賀経済連向けの肥料用石灰の包装下請けをする事になります。これにより弊社は包装下請け賃のみを貰うことによって多少の利を得ることが出来ましたが、サイロには日本石灰が鍵をかけて弊社が利用することは出来ません。さらに弊社独自での佐賀経済連への挨拶が出来なくなりました。昭和53,54年頃には契約を破棄し、サイロを撤去していただきました。
鳥栖への進出は、父が鳥栖出身だったのと、物流の拠点としての鳥栖の利点を考えてのことです。
この土地の取得には、父の小学校頃からの友人である鳥栖市高田町の池田さんに大変お世話になりました。
当時の商工団地予定地は、日本通運と弊社のみが工場を建設しており交通量もまばらでした。

兼定興産鳥栖工場上空写真
写真は現在の兼定興産鳥栖工場を上空から見た写真です。
中央に写っているのが弊社工場で、周辺部は完全に大手企業の工場や倉庫で埋まってしまっています。

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| けんおじ | 創業60周年 兼定興産社史  | 18:26 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
兼定興産社史 (12)兼定興産蠅悗両号変更
弊社は昭和42年1月15日に、兼定商店蠅ら兼定興産蠅悗 商号変更の登記をしました。個人商店の創業からちょうど20年になり、当時の成人式の日をもっての登記です。この頃より徐々に現在の業態に近づいていくことになります。
商号変更に当たり、浮羽・吉井・田主丸の各農業協同組合や久留米市農業協同組合(JAくるめ、久留米市農協)、その他の農協の方々へどのような商号が良いか尋ねながら、商号変更を考えたようです。
この頃には日本パルプや中越製紙等の工業関連のお客様が出来ていました。また近くにあった石橋石油の潤滑油の販売も手がけていました。
今後徐々に工業方面へと商売を進めていこうとするときだったので、「三井物産」「住友商事」と言うような商社系の名前よりも、「宇部興産」や「出光興産」のような化学系の名前に決めたようです。
写真の社名プレートは、現在も社屋玄関に設置していますが、当時は大きな木製の社名板(父の小学校時代の恩師の斉藤先生の書による。)でした。この木製社名板は昭和44年に事務所が焼失するまで使用していましたが、新社屋建設の折りに現在のものに変更しました。

兼定興産プレート

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| けんおじ | 創業60周年 兼定興産社史  | 21:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
兼定興産社史 (11)製紙会社への販売とバーク堆肥
日本石灰工業所と取引をはじめたころから、工業用の石灰の販売開拓が始まります。
日本パルプ日南工場、中越パルプ川内工場、しばらくして出水製紙との取引が始まりました。当初は美祢から貨車で輸送していましたが、その後は石灰専用トラックでの輸送となります。
この頃から一時オイルショックの頃までは、日本石灰との蜜月の時代でした。
当時課長をされていた田村氏は、「兼定は九州の橋頭堡だ。!」とおだててくれていました。
ただ良いことだけではありませんでした、それまで仲良くしていた安田石灰さんとの決別です。日本石灰の営業担当が是非十條製紙八代工場へ石灰を納入するようにしようということで、当社は十条八代工場へ挨拶に行きます。しかし十条八代は安田石灰さんが既に納入されており、これが原因で10年以上の確執が続きました。非常に残念なことです。
また製紙会社はチップを製産するときに、ドラムバーカーで木の皮を剥いてチップを作ります。後年、この時に出る木の皮(バーク)を利用してバーク堆肥を作りはじめました。兼定興産は日本パルプ日南工場へ「ファームリッチ」、出水製紙へ「みどり有機、たばこ堆肥」の製産を委託して福岡県内の農協(JA、農業協同組合)や熊本県のたばこ耕作組合、更には高知県や島根県方面へ販売することになりました。

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| けんおじ | 創業60周年 兼定興産社史  | 13:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |