セピア色の大連・旅順・金州(7)
セピア色の大連・旅順・金州(7)
城内地区を後にして、金州駅に行きます。私は2006年に金州駅を訪問しています。その当時は古い駅で、地方から出てきた中国人が大きな旅荷物を抱えて、たむろしていたのを覚えています。
ところが金州駅周辺はたった4年で様変わりです。金州駅も大きく綺麗になっています。4年前でさえも、満州国時代の建物は壊されていましたが、今では見る影もありません。中国の発展スピードの凄さを感じます。
ロシアが大連に進出してくる以前、遼東半島の中心は大連ではなく金州でした。金州は昔は城壁に囲まれた都市でした。母は小さい頃金州城内で暮らし、その後大連へ移り、さらに敗戦後の日本引き揚げ迄を金州駅近くで生活します。当時生活していた住居近くまで母を案内します。母は、多分この辺に味噌工場があって、○○さんの家がそのすぐそばで、私と母(私の祖母)は、○○さんの家で同居させて貰っていた。と私に伝えます。ただ、周囲は5,6階建てのアパートがあるだけです。線路と壊れかけた小さな建物が僅かに旧満鉄時代を回想できます。
当時この住居のすぐ近所には、日田出身の方が住んでいました。
この方は敗戦時警察に勤めていたので、ロシアの侵攻で、シベリア抑留されてしまいます。私の母方の祖母が、私が小さいときに私に次のようなことを言っていました。
「敗戦でロスケがやって来た。私の家にも将校が遊びに来ていた。将校なので変なことはしなかったが、飾っていた博多人形を欲しそうにしていたので、しょうがないのであげた。」「ロスケが侵入してきたとき、下級兵士は野卑で未文明の人間だった。兵士の死体から腕時計を取って、左右の腕に何個も付けていた。ねじの巻き方が分からず、止まってしまった時計は腕から外して捨てていた。」
この当時のロシア兵は、日本人だけでなく中国人へも乱暴を働いています。
当時のロシア軍の思い出がhttp://www013.upp.so-net.ne.jp/takaharu/hp01/omoide4.htmlにも掲載されていました。
以下、引用
終戦の冬、二月頃だったと思う。長男の私は何とか家計の足しにしようと、早朝四時半に起きて小盗児市場に向かった。大連都市交通の社宅の狭い階段を手探りで下りて、聖徳街三丁目の市電停留所に向いて、だらだらと上り坂をあがった、坂の上はまだ闇の中だった。当時ロスケが拳銃や自動小銃をぶっ放していたので全身がガチガチに緊張していた。
新しい金州駅
金州駅付近のアパート

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| けんおじ | セピア色の大連・旅順・金州 | 08:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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