引き揚げ港・博多の苦難 継承の場限られ、進む風化 について

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引き揚げ港・博多の苦難 継承の場限られ、進む風化 について


本日4月5日(日)、西日本新聞WEB(福岡社会面)https://www.nishinippon.co.jp/item/n/598048/ に「引揚げ港博多」について掲載されていました。。
もと福岡市職員の堀田広治さんが、敗戦後の引揚者を受け入れた博多港に関する資料や史実の伝承を考えておられるようですが、残念ながら時間の波に飲み込まれそうになってあるとのことです。

昨年亡くなった私の母は、祖母とともに中国大連から昭和22年2月22日に舞鶴港に入港停泊し翌23日に帰国上陸して引揚げました。祖父は既に戦病死しており、他に家族はおらず二人での引揚げでした。本当は博多港への引揚げを望んでいましたが、舞鶴行きが早かったので、舞鶴に降りたようです。多分大連港から舞鶴までは2,3日を要したと思います。大連出港に関しては、共産党の検閲指導の下に、共産党の歌「 ♪♪卑怯者さらば去れ〜♪♪♪ 」を歌わされて乗船したと言っていました。又検閲で問題にならないようにアルバムの写真の一部は切り取っていました。
日本の陸地が見えたとき、やっと日本に戻ってこれたとみんな涙したと聞いています。上陸した時は、赤飯の炊き出しがあり、本当に嬉しかったと言っていました。荷物制限があり、ほとんどの資産や物資を持って帰ることが出来ず、祖父が趣味にしていた日本刀や琴など全てを置いての帰国です。裁縫が得意で和裁のアルバイトをしていた祖母は、反物で大きなリュックを作りその中に全てを入れての帰国です。このリュックは日本に着いて、解いて布に戻して売り、生活の糧になりました。
母の話かどうかハッキリしませんが、日本に近づくにつれ海に飛び込み自殺する女性もいたようです。(敗戦のどさくさで、ロシア兵、朝鮮人などに強姦されて、希望をなくした方々の話です。)
私は母や祖父祖母の友人の中国人と今でも連絡を取り合っています。また中国との小商売もしています。その関係もあり母や祖母をとおして敗戦前後のことを多く聞かされました。私にとっては引揚げは、大きな出来事として伝承されています。
でもやはり敗戦後75年も経ち、残念ですが皆さんからは少しずつ忘れられています。

満州からの引揚船

 

 

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| けんおじ | ごもくぞの記 | 11:33 | comments(0) | - | - | - |