ミーシャンのよんでみ亭 東海道五十三次めぐり(15)  
三島から 原まで 1里半

皆さんいかがお過ごしですか?楽しいお正月もあっという間に過ぎていよいよ2月ですね。春はもうそこまで
 ※けんおじ注 2005-02-01の脱稿です。

梅は咲いィたか、桜ァ〜はまだかいなァ・・桜の開花が待ち遠しくなりますなあ。また花見が出来る!

さて今回はまずお詫びから。

前回広重の絵の最後に「三島宿から伊豆の国」とありましたが、「三島宿までが伊豆の国」の間違いでした。つまり東海道53宿のうち、箱根と三島の2宿が伊豆国内でありました。お詫びして訂正いたします。

では駿河の国へ入り今回は沼津宿であります。

【沼津】〜黄昏図〜
沼津

この絵もよかですね〜。

沼津宿に大きな月が昇っております。今日一日歩き疲れた旅人がようやく宿が見えるここまで辿り着き、もうちょっとという思いで歩みを速めております。

大きなつづらを背負った男は讃岐の金比羅大権現へ参詣して天狗の面を奉納する旅。また喜捨を受ける柄杓を持った母娘の一行は伊勢神宮への“抜け参り”みたいです。

“抜け参り”とは主人にも親や親類にも内緒でする伊勢参宮の旅で、路銀もほとんど持たずに沿道の人々の喜捨や庇護に頼るものです。そんな無計画でよく伊勢まで無事行けたのかという感じですが、お伊勢さんは霊験あらたかであるという噂で伊勢に参宮する“お陰参り”は慶安3年(1650年)に始まり、宝永2年(1705年)、享保3年(1718年)、享保8年(1723年)、明和8年(1771年)、文政13年(1830年)に爆発的に流行。 

たとえば文政13年の年には、どうやって数えたか参宮者457万9150人というすさまじさ。じつに日本の人口の15%が伊勢へ繰り出したということですが、沿道の人々はお陰参りの一行が通ると知ると、お伊勢さんのご利益にあやかろうと食べ物や草鞋を用意して待ち構え彼らに施したそうで、そのお陰参りの渦の中に入ってしまえば無一文の“抜け参り”のものも行くことができたという話です。集団的ヒステリーといえばそうですが、いい時代ですね。

では、ちと早いのですが、『膝寿里』から【沼津】を。
沼津 膝栗毛

 『*遊女亀づるの塚あり
  亀づる全せいなりしとき
  一夜に千人の客をとり
  千本の玉茎(へのこ)を交(うけ)たる事あり
  其故にや此辺に千本の松生(おゆ)る
  幹ふしくれて皆男根(へのこ)に似たり』

    *富士の裾野の狩場での曽我兄弟の敵討ちのとき
     敵役工藤祐経に呼ばれた遊女亀鶴

  詞書「ここへはだれもきはしまいね
     なんだかみんながかんづいたやうだから
     気みがわるくつてならないは」

     「人がなんといはふが
      お前せへしつかりしていりやァ
      おらァどこまでも女房にするつもりだ
      どうしてこんな上かいが
      ほかの女にあるものか」 

  ・・・俵や漬物樽が並んでいるようですがここは物置かな?
   この二人の関係は?男のほうは結構な遊び人みたいですが、
   女のほうはこの家の下女かしら。結婚話で釣ってんのかしら。
男はみんな一緒なのね・・
  と想像は膨らみますね?あら、私だけ〜?

沼津宿から西へ、宿場の家並みが途切れますと松並木がつづく千本松原。ここから見る富士山は美しかったでしょうねえ。次回の原の宿は富士山のアップの絵柄です。

ところで、男の方から眺むれば―――

旅の夜の徒然に傾城(飯盛)を買うのはその当時当たり前だったのかもしれません。旅籠屋も宿場も潤うしね。ところが当の飯盛女から見たらどうであったのか?

飯盛の年齢は10代後半から20代の若い女性でしたが、一般の下女が短期奉公(給金年1両2分)であったにもかかわらず、彼女達は多額の前借のため永年季の奉公でした。彼女達の多くは雇い主の酷使の為に年季明け前に発狂したり若死にしたことはよく知られております(そうです)。

次の一節は、天保13年(1842年)上州木崎宿の飯盛ハツが領主に宛てた願書であります。(深井甚三著『江戸の宿』より〈神谷文書〉から)彼女は八年季給金20両の契約です。

「両親妹共久々わづらへ、かり金たくさんでき、よんどころなく木崎宿もり□や江おととしのくれつとめ奉公にまいり候所、去ねんの七月あさやまへ(病)をひきうけ、三十日の余わづらへ、8月中頃よりすこし病気なおり、おきて居ますよふになりますと、夜はきゃくにだされ、ひるハきゃくのない時はやまへたきぎとりにだされ、よるひるからだのやすまるひまなきゆへ病気ハかいき(快気)せず、すこしもやすませて下さるやうに主人江ねがへますと、せめせっかんされまするがつらきゆへ、こらへこらへてつとめいたし候所、またまた十一月中頃より病気おもり・・(侍に介抱を受けたと嘘を言って知り合いの林平に匿ってもらい養生し四月に帰ったところ)、おのれ病中にても内にいれバあげ上郎(女郎)にだしてもちゆうや(昼夜)には金一分ツツにもなるのに、わがままに外へ行てりやうじ(療治)いたせしハふとどきしごくなりと、まい日まい日せめせつかんいたされ、誠になんぎしごくいたしまする、とうぞやとふぞやおじひに林平よりのかしきん(貸金)にて主人方にてひまをくれおやもとへかへしくれ候やう、主人へ御利かへ仰付け下され候やうおねがへ申しあけます。(後略)」

その後彼女がどうなったかはわかりません。
なんともはやかわいそうな話であります。

なのに『膝寿里』に宿女価五百文とあるのを、「フムフムなるほど」なぞと言いながら読んでいるバカ男どもはやはり救われないバカどもなのであります。とはいへ乗りかけた船、京都島原まで『膝寿里日記』は続くのでありまして、幕末に刊行されたこの書物(筆者所持のはその復刻秘蔵版あやしい〜でしょ)をみなさまとともに、江戸風俗を研究していくという名目の下紐解いて行く所存であります。重ね重ね申し上げておるところでありますが。

そういうわけで今回もこれまで。またね。
                       亭主敬白

兼定興産のホームページ
http://urban-green.jp/
も覗いて下さい。 「屋上緑化」が満載です。
| けんおじ | よんでみ亭 | 15:11 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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