兼定興産社史 (2)父、野下定次郎(初代社長)が創業するまで
父は貧農の次男として生まれました。
ただ少し学業が良かったらしく、旧制明善中学へ入学します。しかし貧乏百姓では学費を払うことがなかなか出来ません。明善中学の1年生1学期で学費未納のために退校します。
しかし5ヶ月の短い中学生生活の間に生涯に渡る友人を見つけたりして有意義な時間を過ごしたようです。
友人の中には、当時通町で果物商をしていた大津留商店の息子さん(後の久留米青果社長)や朝鮮総督府から引き上げて古物商をした田村勝さん、石田病院の院長で檀 一雄と交流のあった石田光明さん等がいます。
退校した後は、当時久留米で大手の活版印刷所であった高田印刷で文字組み作業のバイトなどをした後に、給仕として日本通運の久留米支店に臨時雇用された後に正雇用されます。
この頃に弥永忠太(元西久大運送社長)さんや日通の取引銀行で第一銀行久留米支店に勤務してあった赤司虎夫(中央製袋創業者)さん等に非常に可愛がって貰っています。

満州国建国、満州鉄道設立にともない、日通を辞し満鉄運輸へ入社します。この頃に簡単な中国語をマスターし物資補給に関する仕事をしているうちに現地雇用の物資補給担当の役人になったようです。
父は敗戦により内地久留米に引き上げましたが、現地雇用の役人ため国内での仕事を失い、数年間をやみ商売で生活します。
当初やみでは升や石炭を売ったりしていたようです。
この升で、正規の量が計れるという証に焼き印で入れていたマークが「兼定」の由来です。
この頃(昭和22年頃)に兼定商店という屋号を使い始めました。


兼定興産のホームページ
http://urban-green.jp/
も覗いて下さい。 「屋上緑化」が満載です。
| けんおじ | 創業60周年 兼定興産社史  | 09:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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