兼定興産社史 (7)石灰メーカーの盛衰
昭和35年頃より以降になってくると、石灰メーカーの業界も徐々に変わってきました。
それまでの中小零細業者に代わって、大手資本の入った石灰メーカーが台頭してきます。これは高品位の消石灰が工業用に大量に使用され始めていたからです。(消石灰は生石灰に水を掛けて作ります。)
それに伴い、兼定商店の仕入先も少しずつかわってきます。
それまでの大島や天草の石灰メーカーからの購入は少なくなり、徐々に田川の麻生産業や同じく田川の位登産業からの仕入れが多くなってきます。この時代、日本の中長距離輸送の主役は国鉄の貨車輸送でした。一般に貨車輸送を行うときは通運業者に頼んで国鉄から貨車を借り荷物を貨車に乗せます。また荷物を引き取るときも通運業者に頼んで荷下ろしの手配をして「荒荷線」等に貨車を移動して荷を降ろします。弊社の場合着駅は南久留米駅が多く、一部久大本線沿線の駅でした。
貨車が着くと、直ちに貨車を空にして返却しないと国鉄から叱られます。(当時は国内輸送のほとんどが貨車輸送で、貨車をすぐに空にしないと次に貨車を借りる人が順番待ちをしていました。)また生石灰は危険物であるため速やかに移動しないといけません。そこで、国鉄に特別の許可を貰って駅構内の荒荷線横に仮置き倉庫を建て保管することにしていました。
保管手段としては、生石灰を積んだ貨車を駅へ着けて、生石灰をバラ積みしている貨車から人夫さん達が「しょうけ」に移し替えて、「しょうけ」を竿にさして倉庫に入れます。
石灰運び
(絵では2人で運んでいますが、1人で2つの「しょうけ」を天秤のようにして運んでいたかもしれません。)
またこの頃より日本窒素水俣などから出る副産的な生石灰や格外品の石灰が出てきます。
日本窒素水俣からの石灰は水俣にある金橋石灰から分けてもらっていました。


兼定興産のホームページ
http://urban-green.jp/
も覗いて下さい。 「屋上緑化」が満載です。
| けんおじ | 創業60周年 兼定興産社史  | 21:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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