ミーシャンのよんでみ亭 東海道五十三次めぐり(52)  
池鯉鮒から 鳴海へ 2里30丁

『神国日本』の誕生

毎日暑いですね。みなさんお元気にお過ごしでしょうか?
(けんおじ注:ミーシャン2006-08-19の脱稿です。)

源頼朝が鎌倉に幕府を開いておよそ80年。
日本は未曾有の国難に遭遇しておりました。蒙古襲来であります。
――という話から今回はしたいと思います。なんだか長くなりそうですが、たまにはいいかしら〜。
では先ずおさらいです。

1274年(文永11年)10月19日、元・高麗の混成軍3万(舟900艘)が博多に来襲した。いわゆる元寇、文永の役である。
元軍の一部が博多に上陸するや、壱岐対馬や肥前からの急報で駆けつけた九州の鎌倉幕府御家人武士団との間で激しい戦いが始まった。
迎え撃つ我らが武士達は源平以来の名乗りを上げての一騎打ちを所望したが、嘲け笑う元軍からは毒矢や“てつはう”という飛び道具が雨や霰と降り注ぎ、見る間に無残な屍を晒す。〜この辺日本史で習いましたね〜 
驚き慌てる武士達もこれではならじと集団戦法に変更、また増援の到着もあって反撃に転じなんとか元軍を内陸より押し戻す。戦線は膠着しその日は暮れた。
高麗側の資料によれば、日本側の手ごわい反撃に驚きまた損害も大きく矢尽きた元軍は大宰府攻略を断念し撤退を決定。博多の町に火を放って日本軍の混乱する間隙を狙い撤退する計画であったが、炎上する博多から武士達が出撃、慌てた元軍は夜の明け切らぬうちから我先にと碇を揚げて潰走。その撤退の途中玄界灘で遭難。13,500人が戦死または溺死した、ということであります。
一方日本側の資料では、一夜明ければ蒙古船は消えていた、となっており台風のことは一言も書かれておりません。

7年後の1281年(弘安4年)5月3日、高麗合浦を出帆し元の東路軍(主として高麗兵)4万を乗せた900艘の軍船はまたたく間に対馬壱岐を占領し6月6日博多湾にとうとうその姿を現した。
迎え撃つ日本軍は文永の役の教訓から海岸線に20kmに渡る防塁を築き、ために東路軍は志賀島に迂回し上陸するも元軍の戦術を研究していた日本軍のために海上に押し戻される。
が、いかなる理由によってか予定より2週間遅れた7月初旬、平戸に到着した江南軍(主として旧江南兵)10万と合流し実に4400艘14万の元軍が再び博多に迫る。幕府に馳せ参じた10万の武士達も不安と絶望のうちに、ひたすら仏神の加護にすがりつつ来るべき決戦の日を待っていた。
と、ここで奇跡が起こったのであります。
7月30日夜半、海上を吹きすさぶ北西の風はいよいよ猛り、荒れ狂う高波は蒙古軍の大船団を呑み込んだのでありました。翌朝見る影もなく破船・沈没した蒙古軍に対し博多の武士達は競って海辺に繰り出し遭難した諸民族を略奪、召人(めしうど=捕虜)としました。一説によれば、元に滅ぼされる前に誼のあった江南人(南宋の漢人)以外、モンゴル人・高麗人・北方漢人は斬ったといいますが、結局蒙古軍13万人以上が溺死または殺害されました。
ときに新暦8月16日。やはり台風が襲ったようです。
が、死地にあった前線の人々が嵐の中に見たものは――、
ある兵士は雷雲の間に巨大な龍を見、ある者は波間に確かに青竜を見た。巨石が飛来し高波を起こすのを見たものもいた。
極度の恐怖心が幻影を見せたともいえるが、幻影を見た者も見なかった者も斉しくこの暴風雨による勝利を神仏の加護と信ぜられない者はいなかったのである。
・・・なんて、講釈師みたいに後述の本に書かれておりますが、今回の弘安の役では本格的に戦う前に棚ボタ式に転がり込んできた戦果は、仏神祖霊のお陰としか言いようがなかったでしょうね。


さてはなしは文永の役の頃に戻ります。
蒙古来襲の急報を受けた幕府は西国の地頭・御家人に総動員をかけましたが、同時に諸国の一宮二宮・国分寺以下諸社諸寺に対して異国降伏(ごうぶく)の加持祈祷を命じました。一方朝廷も伊勢神宮に奉幣するのはもちろんのこと、王城鎮守二十二社に命じその末寺末社に至るまで祈祷させております。

「文永の年十月二十日の夜、鏑矢の音が神殿から発し、賊船の方へ響いていった。その翌日、賊徒は退散していた。弘安の年は七月二十九日正午、紫の幡(ばん)三流が、当社の上宮より現れて、青天の空に翻りつつ敵船目指して飛び去った。この瞬間に大風が海上を襲い、異国は降伏したのだ。これ以上の霊験があろうか。」(肥前武雄社)

「当山の地主(ぢしゅ)神天野社は、必ず先陣を務めることが、神の戦評定で決まっている。しかも御託宣のあった四月五日は、後に蒙古捕虜の白状したところによると、賊船が出帆したちょうど翌日にあたっているというではないか。他の神社は、偉そうに戦果を言うが、みな蒙古が襲来して後に祈祷を始めたのであり、予知したのはうちの神だけだ。閏七月三十日の神託では、この度の戦では住吉神も八幡大菩薩も天野社の指揮下で闘ったとのことだ。」(高野山)

「弘安の合戦で諏訪明神の姿(雲上の大龍)を見た兵士達は、みな尊神に帰依した。中でも、蒙古人の一兵士は、許されて帰国した後、恐怖と渇仰(かつぎょう)のあまり常州畩清県に諏訪明神を勧請した。神の奇特が敵国に及んだのは我が神のみで、これを見ても他神よりすぐれているのは明らかであろう。」(諏訪社)
   〈海津一朗『神風と悪党の世紀』(講談社現代新書版)より〉

二度の元寇の後、出動して戦った武士達が幕府に対し恩賞を要求しますが、祈祷を命ぜられた寺社もまた同様でありました。上記のように各社がそれぞれの神々の戦果を文書にして幕府に提出し、論功行賞によって恩賞を得ようとしたのです。
わが神の方がほかの神よりいかに優れているかを臆面も無く書いておりますね。
ところが幕府には恩賞として分け与える土地がありません。ですがまた蒙古はやってくるかもしれない。祈祷は続けてもらわなければならない。そこで幕府は金品の献上ほか寺社の社格を上げたり新たに社屋を造営したりします。
結局蒙古襲来によって寺社は勢力を回復していくのですが、とくに顕密仏教の真言律宗西大寺(奈良)派の僧は活動めざましく各国にある国分寺を末寺化していきました。また民衆もその教化もあって蒙古撃退は神仏の加護であるとして、全国に空前の寺社造営のブームが巻き起こります。そしてついに幕府は徳政令『神領興行法』を発令します。
徳政令というと借金をチャラにするという法律かなというくらいの知識しか筆者にはありませんでしたが、この神領興行法とは、
それがたとえ正当な取引であったとしても、神領を買得して相伝している甲乙人(一般人)は、非器(不適格)であるから、すべて社家に返却せよ。
というもので、神領内で武士や庶民が保持していた既得の諸権利を一切否定するものでありました。何十年も住んでたり商売しているのに突然追い出されるか、新たに税金を払うかという二者択一を迫られる無茶苦茶なはなしですが、この法令で最も恩恵を蒙ったのが莫大な神領を回復した伊勢神宮であります。
 伊勢神宮はご存知の通り内宮に皇祖神たる天照大神を祀っておりますが、当時勢力を持っていたのが外宮(豊受大神を祀る)の渡会(わたらい)氏でありました。これより伊勢神道(度会神道)が隆盛していくわけでありますが、はるか後に明治維新を迎え、明治政府は国家唯一の宗教として国家神道を掲げ、我が国を神国日本と標榜するのであります。

 あら、今回も時間的余裕の無さから(締切り時間はとうに過ぎてます)龍頭蛇尾に終わってしまいました。
他に、神と仏の関係やら江戸時代の国学思想やら廃仏毀釈やらが抜け落ちました。これはまたの機会にね。

では東海道であります。
  【鳴海】〜名物有松絞〜
鳴海1

現在の名古屋市緑区であります。
画面に軒を並べているのは当時有名でありました色鮮やかな有松絞を商う反物屋です。
鳴海2

  * いかになるミといふつじうらか
        ぬしの浴衣のこん志ぼり *

  「陰門の音づボづボとなりわたることうミのごとく
   惣身の夜着をとほして志ぼり染の名物あり
   実(じつ)に精(き)がいきさうでよい宵月の
   浜の名たかし」
 
  詞書/アレせわしない
     いまじつきにかミをいって志まふから
     それまでまつておくれよゥ

    /ばかなことをいひねへ
     加ミはいハねへうちがいいのだ
     そしていつまで加まんができるものか
     それ見ねへ
     こんなに大きくなつていらア

まあ、若いときを思い出しますねえ、ずいぶんむか志のハなしだア。

ということで、今回は終わりです。
来る8月13日の同窓会を楽しみに。
またお会いしましょう。
                     亭主軽薄

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