ミーシャンのよんでみ亭 六道めぐり(16)
六道めぐり(16)

      〜天の原ふりさけ見れば春日なる〜
             西安いいとこ またいとこ(後編)


新年、あけましておめでとうございます。
大変御無沙汰しておりました。皆さんには御変わりありませんでしょうか。今年もよろしく御願い申し上げます。
 ※けんおじ注:ミーシャン2008-01-02の脱稿です。
 
諺に、「男子、三日遇わざれば刮目(目をコスって)してこれを見よ」とか申します。というか、昔はよくそう言ったものでしたが、さて前回の101回目のコラムよりはや3ヶ月。
とりあえず人は日々進歩するという前提で、今年はいかなるコラムになるのか、私にも判然といたしませんが、できるだけ皆さまの御期待に沿うべく鋭意努力致して参る所存ですのでどうか今一層の御期待と御寛恕をお願いして、年頭の御挨拶といたします。(なんのこっちゃ)

さて、2007年を振り返って。
清水寺の貫主さんが大書した昨年の言葉は「偽」。情けなかった一年でありました。
同い年の前総理アベちゃんが「美しい国」の理念をぶち上げ、「国家の品格」やら「女性の品格」やらいう書がベストセラーになった割には、いじましい人間の品性が拡大再生産という経済法則にやっぱり敗れていたのを確認した記念の年でありました。
食品業界のいずれも名だたる老舗がその名前の上に胡坐をかいて偽装捏造の数々。利益に対しての貪婪とモラルに対しての怠惰・・・。なんという人間の性(さが)なんでしょ。

こういうあさましい現実に直面すると筆者も心ある読者の皆さん同様、煩悩滅却し清浄無垢な仏門に入りたくなる気持ちが高まって参ります。ああ、だがしかし・・・。

いつぞや申し上げましたように、仏教者(在家信者)は「五戒」を守らねばいけませんが、その中の一つが「不邪淫戒」であります。例の“よこしまなH”はしてはならないというやつね。ですが出家になりますと別に「具足戒」という戒律を守らねばなりません。僧侶で250戒、尼僧で348戒という多さでありますが、中で最も修行の妨げになるとして戒められているのが「不淫戒」。出家は正邪を問わず一切の性的交わりは禁止なのであります。
 がしかし理性を天から授かったとはいえ、人間もまた生き物。歴史を遡ればすでに奈良時代より妻帯の破戒僧もおり、以降大寺の坊主でも隠し妻を抱えていたり密かに性行為をする者後を絶たず、江戸時代に至り記録に現れる欲望に打ち負けた坊主の数の多さに、ため息を禁じえないのもまた事実なのであります。ううう、げに哀しきは男のスケベ心・・。

江戸幕府は、寺院統制として本山末寺制度を定め各宗派の管理を本山に任せる一方、寺請(てらうけ)制度=檀家制度を設けて事実上の戸籍を作り住民の固定化と寺院経営の安定を図りましたが、この制度が現代にまで続く供養葬式仏教を請来しました。
ということで生活を保障された坊主は平和な時代の裡に何をなしたのか?
暖衣飽食すればやはり堕落して行く者が出て参ります。こっそりやってる分には大目に見られていたのですが(いつの時代もそうよね)目に余るほどのことがあれば「女犯(にょぼん)」の罪として罰せられたのです。

八代将軍吉宗が例の大岡越前に作らせた刑法集「御定書百箇条」の中に「女犯之僧御仕置之事」3ヶ条があります。
1、寺持ちの僧(住職)  遠島
2、所化僧(修行僧)   晒しの上、本寺に引渡し脱衣追放
3、密夫の僧       寺持ち、所化僧の差別なく 獄門
これでもそれ以前よりかなり寛刑化したほうで、女犯は住職・修行僧の区別なく極刑である「磔」が普通であったそうです。吉宗の時代、極刑だけに厳格に真相追求するだけのお上の行政能力を、すでに坊主の事件数がはるかに凌駕していたのじゃないでしょうか。
とはいえ、遠島でも死刑に次ぐ重い刑でしかも刑期に終わりがなく、めったにありませんでしたが将軍家の慶事や仏事による恩赦による御赦免でも女犯僧は除外されました。で大半が「鳥も通わぬ」八丈島へ送られたまま一生を過ごしたのです。
1610年〜1866年までの257年間に八丈島に流された罪人1823人のうち、僧侶221人。

ちなみに1830年の事件。大阪道頓堀の日蓮宗寺院の住職がお針として雇っていた女性が大黒(隠し妻)と判明したことから大阪の十数ヶ寺の住職・修行僧を召捕り。2ヵ月後京都に飛び火し、16寺院の住職が女犯のかどで捕えられ遠島に処せられました。すでに大黒を抱えるくらいはどこでもやっている公然の秘密でしたが、あまりに目に余るものがあったのでしょう。江戸時代も中期を過ぎると寺参りなど信心するのも娯楽の一つで、寺のほうも繁盛して財政豊かだった上に派手な噂が流れているのをお上としても聞き捨てにはできないということでついに手入れとなったわけです。
これらの住職は天台宗と浄土真宗を除く各宗派に渡りました。真宗はそもそも妻帯OKですね(僧に非ず俗に非ずって言うんですってね、じゃなんなんだ?)。
その16人の名前と相手。
  光定(59歳)― 尼(30歳)、
  檀洲(54歳)― 京女(24歳)、
  偽眞(51歳)― 町人母(45歳)町人母(41歳)
  文啓(48歳)― 町人娘(21歳)
  眞勅(45歳)― 尼(28歳)
  忍戒(43歳)― 尼(33歳)
  全正(43歳)― 町人娘(18歳)
  元雄(43歳)― 町人娘(17歳)
  茂海(42歳)― 町人母(41歳)
  仁宗(35歳)― 町人娘(20歳)
  自妙(同) ― 町人娘(同)
  首蔵(33歳)― 町人母(41歳)
  見道(同) ― 町人娘(21歳)
  春龍(30歳)― 芸者(18歳)
  宿常(29歳)― 町人娘(19歳)
  別頭(25歳)― 町人娘(17歳)と母(42歳)
うふ、三面記事的な人間模様が透けて見えて来ますが、まったく人倫の紊乱も甚だしく偽眞や別頭など、特に不届きであります。
ということで彼らは皆、八丈島送りとなりました。
一方相手方の女性はというと尼・芸者・素人の区別なく謹慎刑で済んだそうな。めでたしめでたし・・・案外に江戸時代って女性にとってはいい時代だったかもね。

たいそう長い前置きとなりましたが、前回のつづきであります。

年を跨いで申し訳ありませんが、3泊4日の中国大紀行の話でしたね。
さてここ西安はかつての唐の都、長安であります。中国の古都はみな城郭に囲まれておりましたが、この長安城のすぐ西側にかの玄宗皇帝の別宮興慶宮があり、ただいまは市民の憩う広大な公園となっております。その一角に日本から贈呈された高さ4メートルほどの石塔が立っております。阿倍仲麻呂の記念碑であります。
    
阿倍仲麻呂

正面に『阿倍仲麻呂記念碑』とあり、この写真では見えませんが裏面に百人一首にも採られた仲麻呂の歌が刻まれております。

  天の原ふりさけ見れば春日なる
      三笠の山に出でし月かも

この地にて、仲麻呂が若かりし頃遣唐使の一行に選ばれた折の送別の宴に思いを馳せて作った歌ということですが、16歳で長安を訪れて以来はや35年。はるか奈良の都を偲んで詠んだと云われており、まことに感極まるものがあったでしょう。
彼は入唐して太学に入学後、あの難関な科挙に合格し玄宗の愛顧も受け順調に出世して皇帝近侍の高級官僚にまで昇進しました。中国名「朝(晁とも)衡」(ちょうこう)。
752年、35年ぶりに日本へと帰国の途に就くも船が難破して長安へ一時彼の死が伝えられたときに李白が詠った七言絶句が、写真の右側面に彫られているものです。

   『晁卿衡を哭す』
 日本晁卿辞帝都     日本の仲麻呂卿が帝都長安を辞し大海を
 征帆一片遶蓬壷     木の葉のような船で蓬莱島(日本)目指す 
 明月不帰沈碧海     明月は帰らず碧海に沈み白雲たなびいて
 白雲愁色満蒼梧     憂いは海の彼方まで満ちている

尚、王維もこれより先、仲麻呂が帰国するに当たって『秘書晁監の日本国へ還るを送る』という詩を餞に詠んでおりますが、大海を隔てたはるか彼方の国(東夷)からやって来て刻苦勉励の末高級官僚となったこの優秀な異人について、中華の2大詩人が詩を詠んだとはすばらしいことですね。彼らによって大きく、仲麻呂は歴史上名を残したのですから。
ちなみに彼はこのときベトナムに漂着していました。といっても当時のベトナムは中国領でその後無事長安に帰還。のち官界に復帰し最後は安南節度使まで昇進しました。

ところで阿倍仲麻呂とともに717年唐に遣わされた留学生に、吉備真備・玄肪(正確には)と最近西安で墓誌が発掘され話題を呼んだ中国名『井真成』がおります。
彼の本名はたぶん葛井真成(ふじいのまなり)と目されておりますが、その墓誌には「17年間滞在し36歳で亡くなった」と書かれております。733年遣唐船がふたたび来唐し、復路吉備真備・玄肪は帰国。彼は残留して勉学に励むわけですが、志半ばにしてその1年後急病を得て寂しく亡くなるのです。遣唐船がやってくるのは、唐政府から公式に許可されていたのが二十年に一度だけ。吉備達と一緒に帰国していればその後の栄達も吉備・玄肪と同じように約束されていたにも拘わらず彼は、次回の遣唐船がやってくるまで十数年のあいだ唐に残ることを選んだに違いありませんが、急病に敢え無い最後を遂げたのでした。発見された墓誌の最後にこうあります。

  寂乃天常       空しくなる(死ぬ)のは天の常
  哀茲遠方       が、悲しいのはここがはるか遠いところ
  形既埋於異土     遺骸(むくろ)は異国の地に埋められようと
  魂庶帰於故郷     魂は故郷に帰ることを願っている

ううう、せつないですね〜。どれだけ心侘しくまた無念であったことか・・・。

一方帰国した吉備真備と玄肪は大唐留学帰りということで大いに箔がついてトントン拍子に出世します。吉備は晩年には正2位、右大臣まで登りつめました。
かたや玄肪。僧である彼は唐より5000余巻の仏教典を持ち帰り聖武天皇の覚えもめでたく吉備とともに権勢を誇りますが、藤原一族のホープ藤原広嗣の乱を平定したのち権力闘争に敗れ大宰府に左遷され、翌年死亡。
大宰府政庁跡近く観世音寺の裏手には彼の墓がちんまりと立っておりました。
ああ、人の世の有為転変。せつないですね〜。
・・・という様なことを新年早々申し上げるのも如何かとは存じましたが、まあ御容赦ください。斯様な性格はもう直らないということで、どうかひとつ。

ということで今回は坊主に始まり坊主で終わりました。いささか長かったでしょうか。
では、来る5日の同窓会でお会いしましょう。
                         亭主敬白

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| けんおじ | よんでみ亭 | 10:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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