ミーシャンのよんでみ亭 東海道五十三次めぐり(61)  
坂下から 土山へ 2里半
    〜六道めぐりは年頭に当たりお休み〜

 ※ミーシャン2007-01-01の脱稿です。

  
 酒もすき 餅もすきなり 今朝の春  (虚子)

明けましておめでとうございます。
いよいよ2007年も幕を明けましたですね。
昨年はみなさん如何でしたでしょうか?

 雑用に 追われ追われて 古き年  (栗原とみ子)

げに、歳が往ってきますと雑事ばかり増えて去年1年何をしてたやら。

 人並みに いい春をとは つらいこと (古川柳)

最近は新しい年を迎えるのも億劫になってまいりました。「アアまた1年、タツキに追われて日暮らしするのね」って思うんですがそこはやはり正月。屠蘇祝いが始まると、

 屠蘇くむや 流れつつ 血は甦へる (楸邨)

 独酌の ごまめばかりを 拾ひをり (石川桂郎)

 大杯の あと覚えなき 年酒かな  (岡本圭岳) 

ということになりまして、あらま、今年もまた相変わらずの1年になりそうであります。

では東海道であります。
  【土山】〜春の雨〜
土山1

いよいよ東海道も終盤、近江の国へ入ります。京都まであと五宿を残すのみとなりました。(ウウ、さみしいワ)
阪之下(坂下)宿から鈴鹿峠へと向う上り道は八丁(10km)二十七曲りで、箱根に次ぐ難所でありました。峠を越せば緩やかな下り坂となりその先が土山宿、ここは雨が多いことで有名でありました。雨合羽を着た大名行列の一行が田村川に架かった板橋を渡っております。
土山2
     
   * 雨のつちやまあしもとよりも
       くちのすべりの気をつける *

 「兵衛(ひょうえ)景清(かげきよ)阿古やが陰門くじりしに
  阿古やの淫水どろどろ流れ土へかたまり山をなすと
  土山の名ハ是よりはじまる
  加たハらに景清が手洗水といふもこれか」

  書き入れ/アアソレソレ
       いくいくいくいく

      /エエ エエ
       フウ フウ

新年からまことに以って申し訳なく存じております。

でありますに依って、新年サービスとして『膝寿里日記』の巻末にある道中案内より「阪之下」と「土山」を御紹介いたします。
土山3
         
 「阪之下」
 宿のうちに小橋三ッあり左里(ひだり)にすずか川を見る
 此川いにしへハあなたこなたへわたりし故(ゆえ)八十瀬(やそせ)といふ
 俊成卿の歌に
     降初(ふりそめ)て幾日(いくか)に成(なり)ぬ鈴鹿川
                八十瀬もしらぬ五月雨のころ 
 田村丸(坂上の田村麻呂)この川を渡らんとせしに水深き故臍のあたりまで裳裾(もすそ)をまくりふんどしさへ外したればあらハれ出る玉茎(でれつく)の鈴口へ蚊のとまりたる故鈴蚊川すずか山の名ありといふ
 鈴蚊明神ハ田村まる鬼神退治のとき美女と現じ田村まるの先陣にすすんで緋縮緬(ひちりめん)湯具ひきまくりござれ腰にて俣(また)をはだけ玉のやうなる陰門(おんこと)鬼神の方へ見せなふに鬼神ハかかるじゃう開(上開)を一目みるより勢(へのこ)をおやし忽然(たちまち)したがつたりといふ
 二本松の下に蟹塚あり
 むかし此(この)かに美人と化し幾多(あまた)の男の男根(へのこ)をバはさみ切つてハ喰ひしを恵心僧都の男根(まら)じつぺいにて忽然はさみを打ちくだかれそのまま死して妖怪やみしを所の人々葬りてその石塔を立てしといふ
 いくか村茶屋あり道辺に櫛引(くしひき)多し飴をうる
土山4
 
「土山」
西立場(たてば)に多賀大明神の参詣道あり
松の尾名物いもかけどうふ是を玉茎にぬるときハいかなる新造(しんぞ)の新開(あらはち)にてもほねを(骨折)らずしてつるりと這入りしかも陰門いたむことなし
はつものを好む人々ハたくハへ置きて用ゆべし東海道第二の名物なり
いの村あま酒これハ男根へぬるべからずべたべたして気味あしし
雁首あらい水あり
参宮のひとハ忌(いん)で是をのまず

以上、如何だったでしょうか?
やっぱしクダラネエエエ〜。

ということで今年一回目のコラム、相も変わらずくだりませんのですけど、どうかまたこの一年お付き合いの程宜敷く申し上げます。
                         亭主敬白

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| けんおじ | よんでみ亭 | 08:58 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ミーシャンのよんでみ亭 東海道五十三次めぐり(60)  
関から 坂下へ 1里半
      〜六道めぐり その6〜


世の中で、
   一番さびしいことは、仕事がないことである。
   一番みにくいことは、人をうらやむことである。
 
先日ある御宅をお伺いした際、玄関に掛けてあった額に書かれた言葉であります。
冒頭には「福沢諭吉 心訓七則」とあり、他にも一番立派なこと、みじめなこと、尊いこと、美しいこと、悲しいことと併せて七つが箇条書きにして並べてありました。(みなさんもご覧になったことあるかと思いますし、あるいは持ってある方もいらっしゃるかも。)

さすが福沢先生であります。
すべてに愛情を注ぎ、教養を身に付け、嘘をつかず、一途に仕事に専念し、以って社会に貢献する・・・という人生の指針を「心訓」として人々を教導されておられるわけで、全く以って御もっともと存じ上げますが、あとの五則はともかく、初めに述べたクダンの2か条が昨今迷えるわたしの胸に重く響いたのでありました。

みなさまには恙無くお過ごしでしょうか?
ツツガムシはいなくなっても、狂犬病や鳥インフルエンザやエイズ・イジメ・無差別テロ・通り魔・飲酒運転車などと遭遇しないだけ幸甚としなけりゃいけない現代も結構きびしい時代ですね。まあ、志ん生の落語のマクラにも「長生きしようってんで酒止めてタバコもよしたら自動車にぶつかっちゃった〜。」とあるぐらいですから成り行きに任せるっきゃないわけですが。

はなしは福沢諭吉に戻ります。
ご存知の様に慶応義塾の創設者にして「西洋事情」「学問ノススメ」などを著した教育者・文筆家であり、大隈重信とともに英国流政党内閣制による国会の開設を政府に要求し(無論福沢は在野のまま)、明治14年の政変で大隈が参議を罷免されるや伊藤博文らの政府高官と絶縁した後は“不偏不党”の日刊紙「時事新報」を発刊、また朝鮮の改革派の金玉均を大いに援助しアジア各民族による欧米的民主化を構想した啓蒙思想家でもありました。もっとも金玉均が李朝朝鮮により暗殺され無残な追刑が課せられるに及び、絶望した福沢は、日本の指導下によるアジアの民主化にその目標を転じましたが。
・・・ああ、在野の識者や心ある人々は、当時の中国や朝鮮の惨状を見るにつけ列強が植民地化を狙うアジアの、自主独立と民主化を素朴に願っていたと思います。が、この国の置かれた立場や経済的状況や、なかんづく明治維新前後に余りにも多くの俊英が斃れてしまったという不幸が、それからのこの国の進む方向を徐々に誤らせて行った、と思いますがいかがでしょう。
ああだがしかし、これは言っても詮ないことですね。
ですが詮ないことをもっといえば慶応2年、京都の治安を守るため京都守護職にあった会津藩主松平容保に全幅の信頼を置いていた明治天皇の父君孝明天皇が、宮中で俄かに崩御(専ら毒殺の噂)、会津は一転して戊辰戦争で賊軍とみなされ、明治天皇が最も愛された臣民である西郷隆盛は西南戦争でこれも賊軍の大将として自刃。くだって太平洋戦争開戦直前、御前会議で昭和天皇が「米英に勝てるのか?」と御下問され、この国の首脳陣の誰もが、勝てないことは分かっていたにもかかわらず、そうは申し上げず無責任にも「もはや他に選択肢がございません」、ということでナシクズシ的に戦争に突入。天皇の終戦の詔勅がなかったら本土決戦の後この国は分断されていたでしょう。
つまりは大政奉還後の天皇親政も名ばかりのものでありました。結局、天皇を利用するというこの国の伝統を、維新で生き延びた薩長の二流の人材が引き継いだところにこの国の不幸があったのだと思います。
以上、久し振りエラソーに書いてしまいました。

ところで「心訓 七則」なのですが、どうやらこれはデッチ上げみたいですね。同級だった○○君(慶応大学卒)に会ったら聞いてみたいのですが、慶応義塾のHPでは公式に福沢の言葉ではないと否定しています。福沢の熱烈な信奉者か、または商魂たくましいアイデアマンが作り上げたものだそうな。それにしてもよく出来ていて感心させられます。

さて、感心してばかりもいられません。
前回の話のつづきであります。
六つの鳥居が六つの世界に通じていると申し上げましたが、それがつまり六道であります。天道・人道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道。
死後に「道(ゆ)く」世界。
このうち地獄道・餓鬼道・畜生道は三悪道といい、人間の持つ煩悩のうち三毒と呼ばれる煩悩のゆえにおもむく先がこの悪道であります。三毒とは、瞋恚(シンイ)(怒り・憎しみ・怨みなど憎悪の感情)・貪欲(むさぼり)・痴愚(おろかさ)であり、それぞれ地獄道・餓鬼道・畜生道に堕ちるそうですが、そうは簡単に割り切れないのが死後の複雑なところ。
別に十悪というのがあって、大辞林によれば人間の基本的な十の罪悪のことで、殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・両舌・貪欲・瞋恚・悪口・邪見の総称だそうです。
人間に本来備わった罪悪ならみんな地獄行きに間違いないはずなのですが、よくしたもので反対の十善というのもあって、同じく大辞林によれば、十悪を犯さないこと(!)とあり、結局は悪を犯さないことが善であるということに落ち着くわけですね。(さすがバランスを重んじる東洋哲学ね)
とはいえ生身の人間ですから十悪と十善の間を行ったり来たりするうちに死んで来世に生まれ変わるというわけであります。

・・・わたしは、できることなら人間に生まれ変わりたいと思っておりました。でダメなら、飼い猫。生来怠惰ですので、畜生でもいいけど飼い猫。野良はいやですね。一歩譲って飼い犬。
神さま、仏さま〜お願いしますゥゥゥゥ。

さてわたしが鳥居をくぐった先は、みなさんのご推察通り・・・
(なかなか進まないけど、つづく)

それでは東海道であります。
  【坂之下】〜筆捨峰〜
坂下1

関宿から坂之下(坂下)宿に向う途中右手に聳える岩根山を望んだ絵であります。
むかし狩野元信がこの山を描こうとしたとき、あまりの天候の変化に呆れ果て筆を投げ捨てたことから筆捨山と呼ばれるようになったそうです。
広重の筆使いはそのことを意識してか、この山は一段とリキが入っているような。
この絶景を臨む茶屋で旅人達がそれぞれに憩うております。(下図は拡大したもの)
坂下2
坂下3
     
     *さかハてる日もまた雨の夜も
      あハにやこころがやすまらぬ *

  「坂の下の人ハミなふんどしを志めず
   されば馬士(まご)歌にも『さかハふかふか云々
   の文句あり
   とかく男根(へのこ)ハはなし飼にて育てべし
   ふんどしをすれバのびすくなしと也」

   書き入れ/わたしや モウ
        いきさうだヨ
        ソレソレ アア いくいく

       /おれも モウモウ
        それそれ
        アア いくいく

ときどき牛の泣き声が入ったりして牧歌的。
ともかくよかったねェ〜って感じだけど、どんな体位なの。

ということで今回はおしまいです。
                         亭主敬白 

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ミーシャンのよんでみ亭 東海道五十三次めぐり(59)
亀山から 関へ 1里半
       〜六道めぐり その5〜


霜月ももう半ばとなりましたが、みなさんお元気ですか?
(※けんおじ注:ミーシャン2006-11-16の脱稿です。)

    貧乏に追いつかれけり今朝の秋

    去年より又さびしいぞ秋の暮

    月天心貧しき町を通りけり

いや〜、秋もこう深まってくるとつい物悲しくなってまいりますね。
以前にも御紹介したかと思います上の句はいずれも蕪村の句でありますが、蕪村が近代改めて着目されたのは萩原朔太郎の歌論集『郷愁の詩人 与謝蕪村』(昭和11年)の発刊が契機でありました。

    ぬすつと犬めが、
    くさつた波止場の月に吠えてゐる。
    たましひが耳をすますと、  
    陰気くさい声をして、
    黄いろい娘たちが合唱してゐる、
    合唱してゐる。
    波止場のくらい石垣で。

    いつも、
なぜおれはこれなんだ、
犬よ、
青白いふしあわせな犬よ。    
(萩原朔太郎『月に吠える』より〜かなしい月夜〜)

うう、懐かしいけど、暗い。
暗いけど、何故おれはこれなんだ・・・と月に吠えるその気持ちに、未だにすごく共感するのはわたしがまだ成熟していないからでしょうか。52歳といういい年のオッチャンになっても。
ちなみに『世界の中心で、愛をさけぶ』の主人公の名は、この萩原の朔ちゃんから採ったそうな。この本も映画も見てないけど。

さて、そうこう言っているうちに中陰は満ちたのでありました。
不善者たる私のために七日毎の追善供養を家族が手を抜かずにしてくれているのを祈りつつ、四十九日を迎えて藁をもすがりたい気持ちの私は七番目の法廷に立っていたのです。

最終的に第七の裁判官の泰山(たいせん)王の裁きで私の行く末が決まるものと思っておりましたが、王様の言うことにゃ、「あれなる六つの鳥居。お前の来世はそのどれかの鳥居の向こうに続いておる。であるによって、好きに選べ。」

「好きに選べ、ってもなァ」
王様のなんだか無責任な声に背中を押されながら、「やっぱここでも自己責任なの?」と生前の娑婆の薄情さを思い出し、「あの時なぜ小泉を首相にしたのか。あのあたりから世の中ひどくおかしくなった。日本人ってバカじゃなかろうか。俺もその一人だったけど。」などとすべては政治のせいにしたかったのですが、今の政治体制よりずっと前から冥途は存在しているわけで「結局は身から出た錆なのね。」と嘆いているうちに、眼前に六つの鳥居が聳えて参りました。

ありゃ〜ァ・・・。
天道・人道・修羅道・畜生道・餓鬼道そして地獄道。
それぞれの鳥居がそれぞれに繋がっているとな。
で、この中からひとつを選ぶわけね。
西洋では一番ちいさな門を選べば天国に行けるはずなんだけど、こっちはみんな同じよ。
どれにしようかな・・・。地獄行きは勘弁してね。とはいえ7回も審理しているはずだからどれを選んでも行き先は決まっているんだろうね・・・。
などとしばらく迷っておりましたが、永遠にここに佇んでいるわけにもいかず、意を決してぶるぶる震えながら2番目の鳥居をくぐったのでありました。
                      (つづく)

では東海道であります。
  【関】〜本陣早立〜
関1

宿名が関でも関所ではなく、大名が投宿した本陣の様子を描いたものであります。
中央右に画面からはみ出した青竹には大名の名を書いた関札が挟まれ、高張提灯や幔幕には定紋が染めてありますが、この紋は広重の父の実家の田中姓を図案化したものだそうです。大胆で面白いですね。

関2
    
  * 人目の関守ないものならバ
       恋じでくらうをするものか *

  「業平の朝臣一人の女をとぼさんと
   うバたまのやミくもに夜這いしなひしが
   明けの鴉におどろきあハて地蔵にへのこを突きつけなふ
   全くこころがせきの地蔵と今の世までもその名たかし」

  書き入れ/そつちのこざうが祢(ね)ついたら
       またのこざうが目をさました
       なんというつがう志゛やァあるめへか

      /それじやそつちへいかうか子(ね)へ
       アレサいじらないで
       マァおまちよゥ

夫婦仲よきことは美しきこと。
と、武者小路先生も仰っていらっしゃいます。
11月22日は“いい夫婦”の日だそうな。
敬老の日にしろ、こんな記念日を設けて再確認せにゃならんほどとは世も末じゃなかろうか、とか思いつつ花束でも買おうかなと思う今日この頃であります。返って薮蛇か。

では皆さまの上首尾をお祈りしつつ、本日はこれまで。
                         亭主敬白 

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ミーシャンのよんでみ亭 東海道五十三次めぐり(58)  
庄野から 亀山へ 2里

    〜六道めぐり その4〜



秋も段々と深まりいい季節となりましたが、みなさんには如何お過ごしでしょうか?(※けんおじ注:ミーシャン2006-11-01の脱稿です。)

  葡萄に舌をいきいきとさせ今日はじまる (石田破郷)
  葡萄の種吐き出して事を決しけり  (高浜虚子)
  歯にあてて雪の香ふかき林檎かな  (渡辺水巴)
  梨食うて口さむざむと日本海  (森 澄雄)

果物もおいしい季節ですね。

  いちじくの衰えはげし恋も棄て  (赤尾兜子)
  実ざくろや妻とは別の昔あり  (池内友次郎)
  唇(くち)を吸うごと白桃の蜜すする  (上村占魚)

という具合に、果物を詠んだ俳句は色っぽくにもなりますな。

前々回のなかで仏教の五戒の話が出ましたが、第三戒のことがちょっと心に引っかかりまして、ウィキペディアに当たりました。ところシンプルに、

 不邪淫戒・・・自分の妻(夫)以外と交わってはいけない

となっておりました。これは旧約聖書にあるモーゼの十戒のうち第六戒であるところの「なんじ姦淫するなかれ」と同じであります。
前々回の五戒の説明については“ひろさちや”さんの記述をそのまんま引用したわけですが、どうもこの不邪淫戒についてだけヤケに説明が長かったのでおかしいなと思っておりました。今回あらためて考察すれば、十戒の「姦淫するなかれ」とは若干ニュアンスが違うようです。
くどいようですがもう一度引用しますと、

 不邪淫戒・・・OOOOにおいて淫らであってはならない。妻以外の女性と、夫以外の男性とよこしまなOOをしてはならない (前々回参照)

ん〜・・・。たてしまなOOならOKなの?などと突っ込みを入れたくなる説明ではありまね。
(とはいえ、画餅のような気もしないでもなくはないような・・・。あ、いや、守るとか守れないという意味ではなく年齢から来るリビドーの話であります。いや、ポテンツだっけ)

 ところで再度グーグルで五戒を検索したところ、なんと上祐氏の教団アーレフのページ『在家の五戒』に行き当たったのでありました。
このページでは第三戒は「邪(よこしま)な愛欲の行為を行わない」となっておりました。またしても“よこしま”であります。原文がそうだけど宗教関係者の好きそうな言葉なのね。でも「よこしまな愛欲の行為」ってなによ? いまいち意味がわかりません。

結局「淫らでよこしまなのがいけない」ということでありましょうか。であるなら「清くただしいのはよい」ということに落ち着くわけですね。ということは、鶺鴒の契り*みたいなのが理想なのかしら。美しくもあっという間の。
であれば『カーマ・スートラ』なんてのはよこしまを通りこして悪魔のテキストに違いなく、またそれから派生した技巧に関する古今のあらゆる指南書や、ましてや扇情的な春本などは言語道断、断固焚書にすべきでありましょう。

 *イザナギ・イザナミは鶺鴒に男女交合の道を学んだという伝承ですが、
山階鳥類研究所のデータに寄れば、つがいで営巣する鳥の約8割が実のパパと違うそうです。自然界は厳しいのね。それでも人類だけが殖えつづけているのは一定の発情期を持たないせいでしょうか。あるいは貧困が原因でしょうか。

いやはや、今回の主題は第三戒のことではなかったのですが、いきなり脱線してしまいました。
 モーゼの十戒に話を戻せば、他に「なんじ人を殺すなかれ」「なんじ盗むなかれ」「なんじ偽証するなかれ」という戒めは仏教の五戒とほぼ同じような内容でありますが、「なんじ酒を飲むなかれ」は十戒に入っておりません。この点わたしはおおいに安心しました。西洋人って肉も酒もOKなのね。“最後の晩餐”でも聖杯でワイン飲んでたし。あれはマグダラのマリアの子宮の話だったっけ。
がしかし、わたしはこの美しい国(最近少しお安くなりましたが)の日本人であります。また一応仏教徒でもありますし、体感的に西洋人の十戒より五戒のほうに親しみを感じるほうであります。数が半分だし。
でありますから第五戒の不飲酒戒(ふおんじゅかい)を毎日破っていたこのバチ当りなわたしは、あるいは地獄行きを宣告されるのではないか?という不安に慄いていたのでした。

ああ、だがしかし!仏教はこのような破戒に対しても寛容であったのです。
「捨戒(しゃかい)」というのがあったのであります。すなわち、様ざまな事情で戒を守れないときは、一旦戒を捨ててよいという教え。一旦、戒を捨てて、またそこから新しく戒を保つことが重要であり、戒を守ることにこだわってはならないとされている。
じつに素晴らしい教えではありませんか、仏教というのは。

でありますから、わたしは様ざまな事情から毎夕一旦第五戒を捨てていたのでありました。
・・・こら、やっぱり地獄行きかしら。      (つづく)

では東海道であります。
  【亀山】〜雪晴〜
亀山1
 
 朝焼けの空の下、大名行列が静々と坂を登っていきます。画面右上手に石川日向守六万石の亀山城が見えております。森々とした風景の中、雪を被った真ん中の松の木が効いておりますね。

亀山2
      

  *よろづ代をへる亀山よりも
   ぬしの志らミがたのもしい*

「此宿にお山といへる美女ありしが
 領主是を見そめなひお寝間の夜伽に召されツツ
 交合(とぼし)にのぞミなふ
 お山ハいどもはづかしくて亀のごとくにちぢみしかバ
 其宿の名を亀山と号(なづけ)しとぞ」

  書き入れ/志りとりかァ
       不々志やうかァ
       すりこぎかすりばちか
       市ハまけたいちハまけたが
       きいてあきれらァ

      /わたしァよくつてよくつて
       志やうがないよ
       さァ不(ほ)んとうに志ておくれ
       エエもうどう志たらよからうノウ

断固焚書が聞いてあきれらァ。
まあ、これも文化でございまして・・・。
しっかし毎度ながら淫らで、どう志たらよからうノウ。

ではまた次回。関にて。
                      亭主敬白

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ミーシャンのよんでみ亭 東海道五十三次めぐり(57)  
石薬師から 庄野へ 27丁

   〜六道めぐり はお休み〜

先日の大同窓会、みなさんお疲れ様でした。
小●君、申し訳ない。間違えて大変失礼いたしました。
※けんおじ注:ミーシャン2006-10-17の脱稿です。

大同窓会、今年は2年先輩の46会の担当でしたが、記念品は凝った明善の絵葉書セットで、これについては喧々諤々いろいろ評価がありまして、感触としてはイマイチという声もありましたが、パンフレットの方はとっても素敵で中に昔懐かしい北校舎の講堂の写真も載っていました。で、思わずわれら1年生時の文化祭のことを思い出しました。

当時わたしは1年4組、担任は斎△先生。それはまだ入学してまもなくのことだったか今はもう定かに覚えておりませんが、旧校舎(北校舎)の教室から山吹色のスリッパのまま昼休みに沖食堂にラーメンを食いに行ってまして、“スリッパで沖食堂”は長年の伝統であると思い込み「よかにァ〜、高校生ちゃあ。明善は便利かにァ〜。」とパタパタ出掛けておりましたが、誰かが先生に見つかったでしょうか、ある日突然、『昼休みの沖食堂昼飯禁止』令が発動されたことは以前このコラムで書いたような気がします。あら、文化祭のことでしたね。

1年4組の出し物というか企画は、蛍光灯に青や緑や赤や黄色のセロファンを巻き暗くした教室にブリジストンから頂いてきたマットレスの中身のウレタンを敷き詰めて迷路をつくり、そこを客に歩かせるというものでした(たぶん)。たしかそのころの映画で『ミクロの決死圏』というのをヒントにした体内巡りみたいな意図だったろうと思います(たぶん)。
なんと言っても初めての高校文化祭。右往左往するうち愈々文化祭前日。夕方も大分遅くまでみんなで飾り付けに精を出し、やっとどうにか仕上がって三々五々級友達は帰宅の途に就いたのでありますが、どうも遠くから通学している連中はまだまだ家に帰りそうにない雰囲気でした。わたくしその頃は学校近くの瀬の下に住んでまして家に帰ったので知らなかったのですが翌日の文化祭当日、じつはあれから酒盛りしてウレタンの中でみんなで泊まったっちぇ〜と級友から聞かされたのです。16歳のウブな少年(わたくし)は、ぶったまげたのでありました。
思えば、自由で放埓でお気楽な高校生活でありました。
2年の修学旅行では(7組、担任は吉×先生)G君は宿屋で夕食後の自由時間になり部屋に入るやナップサックからおもむろにサントリーレッドの大瓶を取り出し、さあ、飲もうじぇ〜と酒盛りを始めるし、女生徒の部屋に泊まりに行くやつもいたし、しぶいのは旅館の風呂に入らず近くの銭湯に行ったやつ。また後から聞いた話では京都での観光等せずにゴルフ場に行って1ラウンド回ったという剛の者もいたそうな。今我々がやっていることを早くも高校2年生で先取りしてたのね。
ですが17歳のウブな若者(わたくし)は酒も飲めず煙草も吸ったことなく、ただただ彼らのフリーで大人びた行動を、指をくわえて見ているだけでした。 あ゛〜 あの頃は。ハ!・・今のわたくしを知る人は到底信じないでしょうけど。

で、北校舎の講堂であります。
たしか北校舎とは2階で繋がっていたと思います。したがって講堂は2階にあったということかしら。文化祭ではそこで3年生が劇をしていたのをうっすらと覚えています。たしかナンセンスなドタバタをまじえたもので、谷岡ヤスジの漫画に出てくる「アサ〜」と言う“鳥”が大ウケしてたような。ともかく3年生(今年担当の46会)がもの凄く大人びて見えました。
級友達のアグレッシヴな行動といい3年生の大人っぽさといい、半年前に明善に入りなんと沢山の優秀でカッコいい人間がこの高校に集って来ているという現実に気付かされて自信を失いかけていたわたくしはまたしても、自分の子供っぽさに呆れ自分の幼稚さに自己嫌悪を覚えて気持ちは深く落ち込んでいったのを昨日のことのように覚えております。単純というかナイーヴというか、遅れて来た思春期だったのね。

ああ、だがしかし、もう今は昔のおはなしとなりました。北校舎も講堂も体育館もスッパリと無くなりました。ついでにわたくしのそれなりに瑞々しかった感性も、ね。

では東海道であります。
 【庄野】〜白雨〜
庄野1

 みなさんご存知の絵ですね。雪の蒲原か雨の庄野かと言われるぐらい有名ですが、宿場そのものは前回の石薬師の時に申し上げたように旅籠数も少なく、どちらかと言えば貧宿であったようです。絵からそんな雰囲気も多少は伝わってきますでしょうか。
 前回と言えば、一つ訂正があります。
申し訳ありませんでしたが、石薬師のあった鈴鹿市は愛知県ではなく三重県でありました。
三重県在住の同窓生からお叱りのメールをいただきました。謹んでお詫び申し上げます。
(でも、鈴鹿市ってどの辺か、三重県ってどの辺か、よくわかんなーい。ゴメン)

庄野2
     
 * 志ようのわるいと志りつつほれる
      わたしやくらうが志てみたさ *

 「いうふくなる翁(おきな)ありしが
  天性ふしぎなじんばりにて若き妾を多くかかへ
  昼夜をわかたずそバへ引寄(ひきよせ)さァ一番交合(しよう)のう
  晩にも一ばん志やうのうといふ口癖を所の名として
  ついにしやうのと云ふと也」

  書き入れ/アアいいよいよい子だ
       いいヨいいヨもつと口もとをソレソレ
       アア出る出る
       ソレばうの小べんが

      /ゆびにんぎやうを
       つかつて見せるから
       なきなさんな
       ソレどうだどうだ

だそうでございます。
よく分かりませんが、毎度こんなもんですね。
ではまた次回。
                     亭主敬白 

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| けんおじ | よんでみ亭 | 10:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ミーシャンのよんでみ亭 東海道五十三次めぐり(56)  
四日市から 石薬師へ 2里27丁

   〜六道めぐり その3〜

さてさて10月に入り、みなさまには如何お過ごしでしょうか?
※けんおじ注:ミーシャン2006-10-04の脱稿です。

手前事で恐縮でありますが、去る10月2日に行われました恒例48会ゴルフコンペにおきまして、わたくしOBを3つ叩いてスコアーが116でありました。先月の町内コンペではノーOBで120。・・・ああ、もう、ヘタですね〜。イヤになっちゃいますね〜。ゴルフセンスも無いのですね〜。ホントに取柄が無いですね〜。

「子曰く、後世(こうせい)畏るべし。いずくんぞ来者(らいしゃ)の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞(きこ)ゆる無きは、これはまた畏るるに足らざるのみ、と」(子罕篇)

うう。
後世は後輩のこと。これから出てくる若者を侮ってはいかん。どうして若い者が今の我々より優れていないと言えようか。・・・とここまではいい。納得いたします。問題は後段ね。
人間、四十歳、五十歳になって、世間や周囲から「この人あり」と知られ、その名が聞こえてくるようでなければ、一向恐れるに足りない、どころではない――のだそうです。
まいったなァ〜。孔子さんの言ってる意味はよく分かるんですが。
“取柄ナシ”に“聞こえるナシ”だったからなァ〜・・・。うううう。

というふうに嘆くばかりのわたしが善人しか渡れないという三途の川に架かる橋に辿り着ける筈もなく、「山水瀬(さんすいらい)」を死ぬほど!苦労して彼岸へと歩き渡ったのは死んでから14日目のことでありました。

途中、生前聞いていた渡し賃6文の三途の川の渡し舟も無けりゃ、死者から剥ぎ取った着物を木の枝にかけ前世の罪の軽重を計る「奪衣婆(だつえば)」にも出会いませんでした。
やっぱり冥途も時代によって様変わりするのかしらと思いつつ、それでも川の水に流されたか衣服はすっぱりと無くなって寒さに震えながら素裸で歩いておりますと、長い行列の最後尾に並ばされました。どうやら第2の審問みたいです。
生前ならば一服しながら前に並ぶ人と「いや〜待たせますねェ。これが旨いラーメン屋でもわたしゃ並んでまでメシ食おうと思いませんがね。それにしても旧共産圏の人たちゃ大変でしたですね、いつもこんなふうに並んだわけですから。」とかなんとか立ち話でもするところですが、当然そんな余裕もなく、これからどうなるのかという不安と寒さに打ち震えながらじっと自分の順番を待ち続けておりました。

ところで死んで“あの世”に行ってから7日ごとに審問を受けるなんてこと、わたし全く存じませんでした。
冥途には10人の裁判官がいるそうであります。
インドで誕生した仏教は中国に伝わりそれから日本に伝播したわけですので、その名前も中国風で、7日目が秦広王、14日目が初江王、次が宋帝王、五官王、閻魔王、変成王と続き49日目が泰山王。
これでいわゆる「満中陰」となって来世の6つの世界のどれかに生まれ変わるべく判定されるとのこと。
牛頭馬頭(ごずめず)の獄卒を従えた閻魔大王が法廷に引き出された死者を裁いて地獄極楽行きを決める、という冥途のイメージを子供のときに描いたままで、大人になってもそんなものだと思い込んでいたわたしはこの7回の審問の制度はなかなかすぐれたシステムではないか、これだったら過誤なく判決を下せるだろうな〜と考えていたところ、ハタと思い当たったのです。
「(仏教では)次の五戒を守ったか破ったかが冥途における判定の決め手である。」
  不殺生戒・・・みだりに生き物を殺めてはならない
  不偸盗戒・・・盗んではならない
  不邪淫戒・・・セックスにおいて淫らであってはならない。
        妻以外の女性と、夫以外の男性とよこしまな性交を
        してはならない
  不妄語戒・・・嘘をついてはならない
  不飲酒戒・・・酒を飲んではならない

あっちゃアアアア。            (つづく)

  【石薬師】〜石薬師寺〜
石薬師1

 現愛知県鈴鹿市石薬師町。左正面奥が石薬師寺。本尊はもちろん薬師如来。花崗岩を線彫りしたものだそうな。
この宿場は隣宿庄野とならんで旅籠数が東海道中最も少ない15軒(天保年間)。

石薬師2
     
 * 惚れて居るのになぜ志てくれぬ
        ぬしは木像かいしやくし *
 
 「薬師燈泰といへるあり
  此人生まれながらにして男根おやけさらに
  なへるといふことなくやや年ふるに志たがつて
  そのまら志だいに石となる
  是石薬師といふ濫しやうとぞ」

 書き入れ/アレもうそんないたづらを
      志ちやァいやだよウ

     /ちつとかきほぢつてあげやうソレ
      ほかほかとあつたかになつてきた

コタツの季節にはまだまだ早いですね。
それより6日は中秋の名月。月見しながら熱燗をキュ~ゥと。
ほかほかとあつたかうなりたいものです。

ではまた次回。      
                   亭主敬白

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| けんおじ | よんでみ亭 | 07:58 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ミーシャンのよんでみ亭 東海道五十三次めぐり(55)  
桑名から 四日市へ 3里8丁
        〜六道めぐり その2〜


 相変わらずハッキリしない天気が続き、田んぼの稲も黄金色に色づくにはまだまだという感じで大丈夫かしら?今年の新米、などと心配しております今日この頃ですが、みなさんには如何お過ごしのことでしょうか?

 8月の痛ましい事故から、ここんとこ飲酒運転について非常にやかましくなって参りました。(※けんおじ注:ミーシャン2006-09-22の脱稿です。福岡市役所職員の飲酒事故で追突して、相手の車を海へ転落させて、幼い子供が亡くなった事故です。)
警察の取り締まりも厳しくなり法律的にも厳罰化されるとのことですが、わたくし思うに、飲酒運転はもちろんいけませんが、もっと問題にされるべきは飲酒のほうではないでしょうか。
世間を賑わしております最近のオトコの不祥事は酒ガラミがじつに多い!
酒の席で暴言を吐くなどはありきたりで、酔った上での痴漢やら性的ハラスメントの記事が新聞に載らない日はありませんね。
男のほうがストレスに弱いとはよく謂われるものの、いいオトナがストレス発散のため酒に呑まれて一線を越えてしまうってのはなんとも情けないことではありませんか。
腹に思うことと現実との境が酒を飲むことで曖昧になる――ような奴は酒を飲むべきではありません!
たとえ気に入らぬことが腹に溜まりに溜まっていようと、目の前にいる女性が(酒による多幸感から)言うことを聞いてくれそうに見えようと、酒を飲んだ勢いで実際に暴言を吐いたりセクハラしたりするその手前で、ぐっと思い止まるのが分別のあるオトナなのでありましょう。(もっと分別があればそんなこと思いもしないか)
そうできない輩は品性、すなわち酒品(こんな単語あったっけ)が悪いのであります。

大体、人類の叡智であるところの「酒」に対し、失礼であります。
古代中国の殷の時代、酒は神事のときに飲まれておりました。発掘された青銅器のじつに8割が酒器であります。為政者にとって酒を飲むことで神を降ろす(と考えられた)ことも祭りごとでありました。げにや酒は聖なるモノであったのであります。(とはいえ殷の滅亡の原因の一つは過度の飲酒から、という説もあり)
でありますから、酒をいつくしみつつ楽しく飲むことのできない輩は酒を飲む資格はないのであります。といって法律で彼らの飲酒を禁じることは出来ませんから、せめて酒席に彼らを呼ばないというのも手でありますが、それではあまりに消極的かつ人を教え導くという御仏の教えにも背きますので、ここはひとつ「酒品向上」を世論に訴え、社会運動として世の酒飲みの素行を清清しいものに変えていこうではありませんか!
ということでNPO組織「酒品向上委員会」を立ち上げようと思っていた矢先のことでありました。わたしが病に倒れたのは――。(強引な展開ネ)

極悪人は死ねば即、地獄に堕ちるそうです。
反対にチョー善人は即、極楽に生まれ変わるそうですが、大方の人間は死んでから7日ごとの審問を経た上、49日目に六つの世界のどこかに生まれ変わることが決定されるそうであります。

さてわたしはどうやら1つ目の審問を経て、川の手前までやってまいりました。
暗くて深くて対岸の見えない川のこっち側におります。「此岸」ですね。で向こう岸が「彼岸」。ああ、この川を渡ればもう戻れないのね〜と思いながらも足は前に前にと進んでいきます。

この川、“三途の川”というように渡り口がじつは三つありました。
善人は「有橋渡(うきょうと)」から橋を渡ってもいいそうな。
悪人には2通りの行き方があり、同じく川の中を徒歩で渡るにしても少し浅い瀬の所を渡る「山水瀬(さんすいらい)」に行けるのは比較的軽悪人で、重悪人は川の深いところ「江深淵(こうしんえん)」を水に流されながら渡らねばなりません。

その三叉の分れ道にさしかかるまで、わたしはずっと思い悩んでおりました。
悪いことをした覚えが無いから善人である、と自分では思っておりましたが、どんなに考えても善いことをした覚えもありません。
ということは不作為であります。不作為は不善であります。善じゃないなら悪なのでしょうか。じゃ、わたしは悪人なのかも・・。ううう。

中国は清の時代に書かれた「子不語」という書にある妖怪の話が出ています。
『一目五(いちもくご)先生』と呼ばれるこの妖怪は5匹連れであります。5匹のうち4匹には目がありません。1匹だけが目を1つ持っていて他の4匹はその目を頼ってものを見るので一目五先生というのだそうです。
一目五先生は疫病が流行する年に現れます。
5匹はいつもゆらゆらと繋がって歩き、人が眠っているところを狙いすまし、鼻で匂いをかぎます。1匹にかがれるとその人は病気になり、2匹、3匹とかぐ数が多くなるにつれ病は重くなり、最後の5匹目がかぐと死んでしまうのであります。
銭某という人が旅籠に泊まったときのことでありました。
同宿の客が寝静まった後、銭某だけがなんだか眠れずにいると、急にあたりが暗くなったかと思うや一目五先生が姿を現したのです。
1匹が一人の客の匂いをかごうとすると一目先生が、
 「その男は善人だ。かいではいかん。」と言いました。また別の1匹が一人の客の匂いをかごうとすると、また一目先生が言いました。
 「それは福運のあるやつだ。かいではいかん。」また別の客をかごうとすると、
 「それは悪人だ。かいではいかん。」つづけて一目先生は言いました。
 「あれがいい。あいつは善いことも悪いこともせず、福運もない。あいつを食おう。」
1匹がその男に近づいたかと思うとクンクンにおいをかぎ始めました。と、残りの妖怪も続けてかぎ始め、最後に一目先生もかぎ始めました。
その男の寝息は少しずつ弱くなっていきましたが、それにつれ5匹の妖怪の腹は少しずつ膨らんでいったのです。

なぜ、悪人を食わない!?
一目五先生に食われたのはわたしだったの? ううう・・・。 (つづく)

   【四日市】〜三重川〜
四日市1

 動きのあるいい絵ですね。広重の、雪や雨や風を描いた風景画には思わず引き込まれます。

四日市2
     
 *五十路(いそじ)あまりに三宿(みしゅく)のたびも
                けふは都へ四つかいち*

  「此処の女四百文にても一ばんの本々を商なふに故
   四百で一ばんをつづめ四ヶ一と云(いハ)と
   されど一ばんにハかぎらずへのこの力のつづくたけハ
   交合(とぼ)すべし宿の名によつて遠慮することなかれ」

   書き入れ/なにをそんなにふさぐのだ
        気のよハいにもほどがある
        コレサどうしたもんだ
        おぼこじやァあるめへハス

       /それでもなんだか

もしそふことができるんだろうと思ふといつそふさぎます

前回同様シブい絵ですね。次回もこの上品さが続くのでありましょうか。
最後のこの場面だけご覧の方にはそろそろ飽き足らないと思いますが、待っててね〜。
ではまた。
                           亭主敬白

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| けんおじ | よんでみ亭 | 08:43 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ミーシャンのよんでみ亭 東海道五十三次めぐり(54)  
宮から 桑名へ 海上7里  佐屋まわりの陸路もあり

 〜六道めぐり その1〜

いやはや早いものでもう9月であります。
みなさん如何お過ごしでしょうか?
 ※けんおじ注:ミーシャン2006-09-05の脱稿です。

64といえば「当たるも八卦、当たらぬも八卦」でお馴染みの易経64卦がよく知られておりますが、古代インドでは64という数字は人間の急所(マルマン)の数だったそうです。 
このマルマンになにかが触れると、激しい痛みを起こしてその人間は必ず死ぬといいます。
したがって「死穴」「死節」と訳されるマルマンは、漢訳仏典では音写されて「末摩」となりました。

・・・わたし生来痛みに弱いタチでしたがこんなにも酷い痛みだとは思いもつきませんでした。まるで死んでしまいそうなくらい・・いえ、実際死んでしまったのですが。
「断末摩」の苦しみを味わったわたしは、ふと気づけば真っ暗な山道を歩いておりました。

大酒飲みで煙草好きであったわたしが医者に肝臓ガンのため余命半年と宣告されて、あれから1年。
病院のベッドの上で言いあらわせない苦痛を味わった後フッと軽くなり、自分の体を取り巻いて泣いている家族の姿を病室の天井近くからぼんやり眺めていたのが今生の別れ。いや前世の最後の記憶でありました。

ただひとりトボトボと暗い山道を歩き続けておりましたが、ここが「死出の山」であることはなんとなく分かりました。
どのくらい歩くのだっけ?そう、800里とモノの本には書かれてたな。中国の単位だから400kmくらいか。むかし48会のコラムで書いてた東海道中の江戸から京都までと一緒やね、
とか思いながら歩き続けておりますと、向こうに関所らしきものが見えてまいりました。

 そこでは、生前殺生の罪を犯さなかったかを聞かれたようですが、どうもハッキリしません。誰に聞かれたのかも朦朧として・・。でもたしか夏には蚊を打ってつぶしたしゴキブリもスリッパで叩き昇天させたし、カエルも間違えて踏んづけたかも、と弁解してたような・・。
 わたしが死んで7日目のことでした。

それからまたしばらく歩いていました。
すると前方に川が見えてきました。
はあ、これが三途の川か。とするとこっち岸が賽の河原なのね。

案の定、大勢の子供達がそれぞれ一生懸命小石を積んでいます。
年端も行かぬ幼子が石を積み上げて塔を作ろうとしているのですが、ようやく石を積み塔を作りあげてほっと安堵した途端、冥途の鬼が飛んできて鉄棒でその塔を壊してしまうのです。鬼は驚き悲しむ子供に向ってもう一度石を積んで塔を作るように命令します。子供達は泣く泣くまた石を拾って積み始めます。そうしなければ鬼にその鉄棒で打たれるのです。そうやってやっと積み上げ終わるとまた鬼が現れて・・・。

これがわたしには分かりませんでした。
鬼の言うことにぁ、「幼くして死んだ子供の罪は重いのだ。第一におのれの死のために父母を嘆き悲しませた。また生前善行も積まずして、仏の教えも聞くことが出来なかった。であるから子供らは三途の川を渡れないのだ。その罪をあがなわせるための布施として塔を作らせておる。そしてずっとここにいて石を積まなければならんというのは子供の親の善行が足りないからだ。恨むなら早死にした自分を恨め。また悲しむだけで善行の足りない親を恨めばいいのだ。」
ううう、厳しいお言葉。
でもよく理解できません。子供達は皆が死にたくて死んだわけじゃない。
またどう考えても大人のほうが罪深いのでは?
わたしも、いい年だけど前世に老母を残してきたし善行も積んでないし、ましてや仏様の教えに従ってきたわけじゃないから、どうなんでしょうね。この川を渡れるかしら。

子供達には、しかしながらお地蔵さんがいらっしゃいます。お地蔵さんがこのかわいそうな子供達をお救いなされるそうです。
残念ながらわたしはここでお地蔵さんとお会いすることが出来ませんでした。(つづく)
 
   〈参考;ひろさちや著『仏教の世界観 地獄と極楽』すすき出版〉

【桑名】 〜七里渡口〜
桑名1

 宮宿から桑名まで木曾・長良・揖斐の3本の川を渡るという不便を避け、海上を舟で渡るという七里の渡。松平越中守11万石の桑名城物見櫓の前で帆を下ろし右手の渡し口へ向う舟を描いております。渡し口を上ったところに伊勢神宮一の鳥居が立っておりました。名物はやはり、その手は桑名の“焼き蛤”。今時使わなくなった言い回しではありますが。
桑名2
   
 * 私しや桑名のやきはまぐりよ
       ぬしにわられて水をだす *

 「桑名は苦ハ無(な)にて此所の女陰門
  穴広くしていかなる大男根といへども
  是にのぞませ一推(ひとおし)推せバ
  苦ハなく這入(はいる)なり依て苦ハ無の名有(あり)と
  されバ名物大蛤をあきなふ」

  書入れ/さァこのなかへはいつてはやくあたためてくんねへ
      なんだかだかつてゐねへとはださむくつてならねへようた

     /アレまたあんなきやすめばつかり
      にくらしいほどほどかいいよ

今回は、どうも言葉遊びがメインみたいでイマイチいやらしさに欠けておりますことをお詫びしつつ、是まで。
ではまた次回、三途の川渡しからお送りいたします。
                             亭主敬白

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ミーシャンのよんでみ亭 東海道五十三次めぐり(53)  
鳴海から 宮へ 1里半

みなさん、8月13日の同窓会お疲れ様でした。
 ※けんおじ注:ミーシャン2006-08-19の脱稿です。

3年ぶりの学年同窓会でしたが、3年2組担任川○先生、5組山×先生、9組吉△先生の各先生方もお元気で総勢60名、懐かしい話や四方山話でおおいに盛り上がりアッという間の2時間半でした。

ただ今年は初盆で来られないという欠席者が多かったのですが、そういう『年まわり』なんだねと、なんとなくみなで納得。
そんななか、「やあ〜ひさしぶり」と挨拶しつつも、つい胸の名札のほうに目が行きがちに。遠い記憶を辿り辿り・・・だよね〜。判からんよね〜。おまけに名札の字も見えんし。「しかし変わらねえ奴は、変わんねえ〜なァ、うらやまし」とは私の感想でありました。(ついでに申せば拝命した司会役、チンタラな進行で大変失礼いたしました)

とはいえ今回、悲報がありました。
同窓会を開くにあたって住所確認の折、旧3年4組●●●●君が御逝去されたことを奥さんから伺いました。急病のため3ヶ月の闘病の末6月に亡くなったそうです。迂闊にして存じませんでした。付中出身で細おもてのダンディーな面影が偲ばれます。ご冥福をお祈りします。

やっぱ、いかにも早いよねえ・・・。

さて本日はすでに8月18日、台風の真っ只中であります。
午前3時に起きてテレビの台風情報を見ながらこの原稿を書き込んでおります。
じつを申せば私、台風騒ぎが嫌いじゃありません。被害を受ける方には申し訳ないですが、かなり好きなほうよ。大っぴらに仕事休めるし(普段もあまりしてないけど)大っぴらにゴロゴロお篭りできるのは盆正月や台風・大雪の時くらいだしィ、犬の散歩も庭の水遣りもお休みだしィ、・・停電はマズイですが。今回の10号はどうやら雨台風で暴風域もないからお手ごろね。

それでは東海道であります。
  【宮】〜熱田神事〜 (保永堂版)
宮1

今の名古屋市熱田区であります。
三種の神器のうちの一つ『草薙の剣』を祀る熱田神宮の所在地として知られ、宮の地名もここから来ています。絵は熱田神宮に馬を奉納する神事を描いており、どうやら競走して奉納したようです。各チームの半纏は前回の鳴海宿でご紹介した有松絞。
東海道五十三次中41番目の宿であるここ宮宿は、東海道中最大の旅籠数を誇っておりました。というのも伊勢神宮に次ぐ大社である熱田大明神の門前町で賑わっていただけでなく、ここから一里半離れた名古屋を控えていたからであります。
御三家筆頭尾張徳川家名古屋藩61万9千石名古屋城下。
享保年間8代将軍吉宗の緊縮財政策に反発した名古屋藩7代藩主宗春は名古屋城下に芝居小屋・遊郭など誘致し経済開放策を推進、なかでも遊郭は西小路・富士見・葛町の3ヵ所を公認するなど3都をも凌ぐ繁栄を見たのでありましたが、元文4年(1739年)、藩重臣と幕閣の策謀により宗春失脚。芝居小屋・遊郭は閉鎖され名古屋は火の消えたように寂しくなったのでした。前後わずか8年の宗春の治世でありました。
うう、宗春さん、かわいそう〜。
このあと彼は25年間も幽閉され69歳で亡くなりますが、墓石には金網をかぶせられ、名誉回復してその金網が外されたのは死後75年も後でありました。有能すぎた殿様と御家大事の家臣との対立から生まれた悲劇の典型的な例。

また宮宿から次の桑名には舟で7里の渡を渡りました。およそ4時間の船旅です。下図は行書版。
【宮】〜熱田浜之鳥居〜 (行書版)
宮2

 で、またしても。

宮3
   
  * ミやのあつたの海こぐふねよ
      あけくれわかずにこがれるる *

  「この所ハ海道無双の遊里にして
   玉門にたとハバ子宮(こつぼ)のごとし
   依って宮といふ
   又宮とはかりいひて子をとりたるハ
   遊女宿女のたぐひ子をうむことなけれハなり」

  詞書/だれもこ祢へうちにちょつといちばん
     大いそぎでさアはやくよこになんねへ

    /それでもなんだかあんまりだねへ

ですね。あんまりです。よくわからんけど。

ということで今回は終わりです。
ではまた次回、「宮から桑名まで」にて。
                     亭主敬白


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| けんおじ | よんでみ亭 | 17:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ミーシャンのよんでみ亭 東海道五十三次めぐり(52)  
池鯉鮒から 鳴海へ 2里30丁

『神国日本』の誕生

毎日暑いですね。みなさんお元気にお過ごしでしょうか?
(けんおじ注:ミーシャン2006-08-19の脱稿です。)

源頼朝が鎌倉に幕府を開いておよそ80年。
日本は未曾有の国難に遭遇しておりました。蒙古襲来であります。
――という話から今回はしたいと思います。なんだか長くなりそうですが、たまにはいいかしら〜。
では先ずおさらいです。

1274年(文永11年)10月19日、元・高麗の混成軍3万(舟900艘)が博多に来襲した。いわゆる元寇、文永の役である。
元軍の一部が博多に上陸するや、壱岐対馬や肥前からの急報で駆けつけた九州の鎌倉幕府御家人武士団との間で激しい戦いが始まった。
迎え撃つ我らが武士達は源平以来の名乗りを上げての一騎打ちを所望したが、嘲け笑う元軍からは毒矢や“てつはう”という飛び道具が雨や霰と降り注ぎ、見る間に無残な屍を晒す。〜この辺日本史で習いましたね〜 
驚き慌てる武士達もこれではならじと集団戦法に変更、また増援の到着もあって反撃に転じなんとか元軍を内陸より押し戻す。戦線は膠着しその日は暮れた。
高麗側の資料によれば、日本側の手ごわい反撃に驚きまた損害も大きく矢尽きた元軍は大宰府攻略を断念し撤退を決定。博多の町に火を放って日本軍の混乱する間隙を狙い撤退する計画であったが、炎上する博多から武士達が出撃、慌てた元軍は夜の明け切らぬうちから我先にと碇を揚げて潰走。その撤退の途中玄界灘で遭難。13,500人が戦死または溺死した、ということであります。
一方日本側の資料では、一夜明ければ蒙古船は消えていた、となっており台風のことは一言も書かれておりません。

7年後の1281年(弘安4年)5月3日、高麗合浦を出帆し元の東路軍(主として高麗兵)4万を乗せた900艘の軍船はまたたく間に対馬壱岐を占領し6月6日博多湾にとうとうその姿を現した。
迎え撃つ日本軍は文永の役の教訓から海岸線に20kmに渡る防塁を築き、ために東路軍は志賀島に迂回し上陸するも元軍の戦術を研究していた日本軍のために海上に押し戻される。
が、いかなる理由によってか予定より2週間遅れた7月初旬、平戸に到着した江南軍(主として旧江南兵)10万と合流し実に4400艘14万の元軍が再び博多に迫る。幕府に馳せ参じた10万の武士達も不安と絶望のうちに、ひたすら仏神の加護にすがりつつ来るべき決戦の日を待っていた。
と、ここで奇跡が起こったのであります。
7月30日夜半、海上を吹きすさぶ北西の風はいよいよ猛り、荒れ狂う高波は蒙古軍の大船団を呑み込んだのでありました。翌朝見る影もなく破船・沈没した蒙古軍に対し博多の武士達は競って海辺に繰り出し遭難した諸民族を略奪、召人(めしうど=捕虜)としました。一説によれば、元に滅ぼされる前に誼のあった江南人(南宋の漢人)以外、モンゴル人・高麗人・北方漢人は斬ったといいますが、結局蒙古軍13万人以上が溺死または殺害されました。
ときに新暦8月16日。やはり台風が襲ったようです。
が、死地にあった前線の人々が嵐の中に見たものは――、
ある兵士は雷雲の間に巨大な龍を見、ある者は波間に確かに青竜を見た。巨石が飛来し高波を起こすのを見たものもいた。
極度の恐怖心が幻影を見せたともいえるが、幻影を見た者も見なかった者も斉しくこの暴風雨による勝利を神仏の加護と信ぜられない者はいなかったのである。
・・・なんて、講釈師みたいに後述の本に書かれておりますが、今回の弘安の役では本格的に戦う前に棚ボタ式に転がり込んできた戦果は、仏神祖霊のお陰としか言いようがなかったでしょうね。


さてはなしは文永の役の頃に戻ります。
蒙古来襲の急報を受けた幕府は西国の地頭・御家人に総動員をかけましたが、同時に諸国の一宮二宮・国分寺以下諸社諸寺に対して異国降伏(ごうぶく)の加持祈祷を命じました。一方朝廷も伊勢神宮に奉幣するのはもちろんのこと、王城鎮守二十二社に命じその末寺末社に至るまで祈祷させております。

「文永の年十月二十日の夜、鏑矢の音が神殿から発し、賊船の方へ響いていった。その翌日、賊徒は退散していた。弘安の年は七月二十九日正午、紫の幡(ばん)三流が、当社の上宮より現れて、青天の空に翻りつつ敵船目指して飛び去った。この瞬間に大風が海上を襲い、異国は降伏したのだ。これ以上の霊験があろうか。」(肥前武雄社)

「当山の地主(ぢしゅ)神天野社は、必ず先陣を務めることが、神の戦評定で決まっている。しかも御託宣のあった四月五日は、後に蒙古捕虜の白状したところによると、賊船が出帆したちょうど翌日にあたっているというではないか。他の神社は、偉そうに戦果を言うが、みな蒙古が襲来して後に祈祷を始めたのであり、予知したのはうちの神だけだ。閏七月三十日の神託では、この度の戦では住吉神も八幡大菩薩も天野社の指揮下で闘ったとのことだ。」(高野山)

「弘安の合戦で諏訪明神の姿(雲上の大龍)を見た兵士達は、みな尊神に帰依した。中でも、蒙古人の一兵士は、許されて帰国した後、恐怖と渇仰(かつぎょう)のあまり常州畩清県に諏訪明神を勧請した。神の奇特が敵国に及んだのは我が神のみで、これを見ても他神よりすぐれているのは明らかであろう。」(諏訪社)
   〈海津一朗『神風と悪党の世紀』(講談社現代新書版)より〉

二度の元寇の後、出動して戦った武士達が幕府に対し恩賞を要求しますが、祈祷を命ぜられた寺社もまた同様でありました。上記のように各社がそれぞれの神々の戦果を文書にして幕府に提出し、論功行賞によって恩賞を得ようとしたのです。
わが神の方がほかの神よりいかに優れているかを臆面も無く書いておりますね。
ところが幕府には恩賞として分け与える土地がありません。ですがまた蒙古はやってくるかもしれない。祈祷は続けてもらわなければならない。そこで幕府は金品の献上ほか寺社の社格を上げたり新たに社屋を造営したりします。
結局蒙古襲来によって寺社は勢力を回復していくのですが、とくに顕密仏教の真言律宗西大寺(奈良)派の僧は活動めざましく各国にある国分寺を末寺化していきました。また民衆もその教化もあって蒙古撃退は神仏の加護であるとして、全国に空前の寺社造営のブームが巻き起こります。そしてついに幕府は徳政令『神領興行法』を発令します。
徳政令というと借金をチャラにするという法律かなというくらいの知識しか筆者にはありませんでしたが、この神領興行法とは、
それがたとえ正当な取引であったとしても、神領を買得して相伝している甲乙人(一般人)は、非器(不適格)であるから、すべて社家に返却せよ。
というもので、神領内で武士や庶民が保持していた既得の諸権利を一切否定するものでありました。何十年も住んでたり商売しているのに突然追い出されるか、新たに税金を払うかという二者択一を迫られる無茶苦茶なはなしですが、この法令で最も恩恵を蒙ったのが莫大な神領を回復した伊勢神宮であります。
 伊勢神宮はご存知の通り内宮に皇祖神たる天照大神を祀っておりますが、当時勢力を持っていたのが外宮(豊受大神を祀る)の渡会(わたらい)氏でありました。これより伊勢神道(度会神道)が隆盛していくわけでありますが、はるか後に明治維新を迎え、明治政府は国家唯一の宗教として国家神道を掲げ、我が国を神国日本と標榜するのであります。

 あら、今回も時間的余裕の無さから(締切り時間はとうに過ぎてます)龍頭蛇尾に終わってしまいました。
他に、神と仏の関係やら江戸時代の国学思想やら廃仏毀釈やらが抜け落ちました。これはまたの機会にね。

では東海道であります。
  【鳴海】〜名物有松絞〜
鳴海1

現在の名古屋市緑区であります。
画面に軒を並べているのは当時有名でありました色鮮やかな有松絞を商う反物屋です。
鳴海2

  * いかになるミといふつじうらか
        ぬしの浴衣のこん志ぼり *

  「陰門の音づボづボとなりわたることうミのごとく
   惣身の夜着をとほして志ぼり染の名物あり
   実(じつ)に精(き)がいきさうでよい宵月の
   浜の名たかし」
 
  詞書/アレせわしない
     いまじつきにかミをいって志まふから
     それまでまつておくれよゥ

    /ばかなことをいひねへ
     加ミはいハねへうちがいいのだ
     そしていつまで加まんができるものか
     それ見ねへ
     こんなに大きくなつていらア

まあ、若いときを思い出しますねえ、ずいぶんむか志のハなしだア。

ということで、今回は終わりです。
来る8月13日の同窓会を楽しみに。
またお会いしましょう。
                     亭主軽薄

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| けんおじ | よんでみ亭 | 23:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |