ふるさとのお社(10)
ふるさとのお社(10)
〜水天宮幕末編〜
君が代の安けかりせばかねてより
身は花守となりてんものを (平野国臣)


みなさん!先日の大同窓会、たいそうお疲れさまでした。
あっという間に終わりましたね。私等48会は総勢52人で、いやはや久し振りの集合で楽しかったですね。今回はなんといっても第2部に入り第3会場の我等の間近で鮎川まこと&シーナ夫妻がトークしてくれたのが最高でした。やっぱ現役ロッカーはシブくてカッコよかった〜。(しかし鮎川氏の訛りはきつかったですなァ)それと司会も上手でしたね。たしか○○(旧姓)さんといってドリームFMで活躍していた人でしょう。いい感じでゲストの話を聞き出しおおいに盛り上がりましたね。

で、おミヤゲはやはり校章刻印入りフォーク3本セット(ノリタケ製同じ化粧箱入り)でありました。昨年の我等がスプーンセットとお揃いだとまた一段といいんじゃないですか?――ということで、諸般の事情により若干の現物をプールしておりますのでもしご希望の方がいらっしゃいましたら事務局へお問い合わせ下さい。

さて随分まわり道を致しましたが、“それからの”平野国臣に話を戻しましょう。
そもそも“安政の大獄”前まではいかな純粋激烈な尊王の志士であろうと倒幕までは思い至らず、外敵に対し幕府は政治機能を強化するとともに精神的支柱として朝廷を尊崇奉り古来よりの神国日本の国民一丸となって国難に当たるというつまりは公武合体論が専らであったのですが、井伊大老の恐怖政治により次々に名のある有能な思想家・愛国者が虐殺されていくにつれ全国の尊攘派志士たちの幕府に対する怨嗟と失望の声が高まるなか万延元年井伊は桜田門外で水戸浪士らにより暗殺されたのでした。その1年後、先述したように平野は薩摩候に捧げる建白書という体裁で七千余言にも及ぶ『尊攘英断禄』を書き上げ真木和泉や清河八郎に激賞されております。この時点でこのような具体的かつ精密な“倒幕論”は空前絶後であり7年後の1868年に始まる鳥羽伏見の戦い以降の歴史はまさにこの建白書をなぞるが如く展開して行くのであります。それはそうとして。
平野がこの『尊攘英断禄』を書き上げ久留米に真木を尋ねたころ、真木の娘お棹と恋愛が始まったようです。先回にも書きましたように真木が蟄居中の水田(現在の筑後市水田)に平野がはじめて訪れた翌年(文久1年)のことのようですがこの時平野34歳、お棹21歳でありました。しかしこの恋愛も儚いものでした。翌文久2年3月、島津久光が藩兵1000人を引き連れ上京するに先立ち、平野は薩摩藩の精忠組左派と歩調を合せ九州の志士を結集して攘夷倒幕の挙を起こすために上坂します。別れにあたってお棹はこんな歌を平野に送っております。

 梓弓春は来にけりますらをの
  花のさかりと世はなりにけり

これに対して平野の返歌。

 ますらをの花咲く世としなりぬれば
  この春ばかり楽しきはなし
   数ならぬ深山(みやま)桜も九重の
    花のさかりに咲きはおくれじ

お棹の餞に、微笑ましいくらい意気揚々と応える平野でありました。
ではありましたが、回天の機はいまだ熟さず。島津久光の本意と大久保の説得による西郷の翻意により寺田屋の惨劇となるわけですが、事件の11日前に筑前福岡藩主黒田斉溥(平野は筑前藩の足軽出身。また斉溥の実家が島津家)説得に播磨に出かけそのまま捕まって(平野は危険人物と見なされ以前より手配中)福岡に護送されのち1年幽閉されます。このため当然真木などと一緒に寺田屋にいたはずの平野がいなかったわけです。
文久3年3月出獄。このころが京都では天誅が流行り甚だ勤王盛力の意気盛んだった頃であります。平野の同志が公家に手を廻し朝旨として筑前藩に働きかけた結果でありました。
6月、藩の京屋敷へ上れという藩命であります。出獄してより前回の高杉晋作編にも登場した野村望東尼が、平野とお棹を結婚させようと久留米に足を運ぶなどして骨を折りますが平野の急な上京のためとうとう話は成りませんでした。
以後平野は死ぬまでお棹と逢えずに終わったのであります。
その頃京は長州藩を中心とする尊皇攘夷派がもっとも威勢のいいときであります。薩摩や会津などの称える公武合体論は俗論として人気が無く、久坂玄瑞など長州藩が若い血気盛んな公家を焚きつけ朝廷の雰囲気も反幕府に大きく傾いておりました。この長州の藩論を指導していたのが真木和泉であります。真木は大和行幸・攘夷親征を構想します。天皇が大和に行幸されたのち伊勢神宮へ親拝されるというものでありますが、そこには謀事が隠されていました。大和から諸大名へ綸旨を下し義軍を募り東へ向かって進軍するというものであります。これはまさに平野のあの『英断禄』を下敷きにしておりました。
この裏のことは天皇も上流公家も知りません。ついに裁可され8月13日発表。27日御発駕ということになりました。
一方上京して学習院出仕を命じられていた平野は、前もって大和地方へ先鋒隊として出発した中山忠光卿を大将に押立てた天誅組が勝手に過激な事をしないようにと遅ればせながら監察役を命じられます。19日に天誅組に追いつきましたが時既に遅く五条の代官所を襲い幕府の役人5名を斬った後でありました。そこへ京より驚愕の知らせが届きます。薩会と結んだ中川宮(策士久爾宮朝彦親王)が天皇の詔勅をいただき長州勢を追放したというもの。いわゆる8月18日の政変であります。
大急ぎ京に帰った平野ですが、京ではすでに長州勢は三条実美以下七卿を奉じて国許へ引き上げており勤王攘夷派は壊滅状態でありました。そしてここにも早すぎた英雄の悲劇が待っておりました。時はついに平野に味方しなかったのでしょうか。
一旦長州へ戻り不本意でもいささか雌伏すべきであったのでありますが、平野は天誅組に呼応するため生野で挙兵します。がうまく行かず結局大将に据えた沢宣嘉卿に逃げられ失敗。捕えられて京の六角獄に繋がれます。明けて元治元年の7月19日いつぞや書きましたように長州藩による蛤御門の変(禁門の変)が起きます。この折の戦火により京は大火となります。火が獄舎に及び牢内の志士たちが脱走、長州勢と合流するのを恐れた町奉行は処刑を断行。生野の変、池田屋事件で捕えた志士30数名を未決のまま斬首しました。一説によれば新撰組が手を下し、牢の格子ごしに槍で突き殺したといいます。
ときに平野37歳。一年に及ぶ牢暮らしで肉落ち骨枯れ総髪の髪も髭も真っ白にただ眼光だけが炯炯としていたそうであります。無念・無念・無念。
絶唱。
 憂国十年
 東に走り西に馳す
 成敗天に在り
 魂魄地に帰す
 見よや人あらしの庭のもみぢ葉は
 いづれ一葉も散らずやはある

ということで水天宮平野国臣編はお終いであります。お疲れさまでした。
ところで幕末を読んでますと、登場するみなさん歌をよく嗜んでおりますね。敷島の道というんですか。いやはや昔の人は偉かったですね。で、翻ってみて筆者の精進が足りませんのを最近つくづく反省するのであります。ここは55の手習いってのを始めましょうかね。川柳とか都々逸とか、三味線とかピアノとか。・・・相変らずノーテンキであります。
ではまた次回をお楽しみに。
亭主敬白

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| けんおじ | みのるの古文書談義 | 11:21 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ふるさとのお社(9)
ふるさとのお社(9)
〜幕末編番外松蔭神社隋

時鳥(ほととぎす)血に啼く声は有明の
月より他に知る人ぞ無き   (久坂玄瑞)


いつまでも残暑が続きますが、皆さんその後いかがお過ごしでしょうか?
昨年秋のリーマンショックから1年。世界中テンヤワンヤの騒ぎも取りあえず一段落し、このところ景気は回復基調と報道されているようですがどうなんでしょう、久留米の景気。なんだか冷え切ったままのようで、というかどんどん悪くなっているみたいな感じがしているのは私だけでしょうか。
先日の衆議院議員選挙で自民大敗・民主大勝政権交代の結果となったのは、なんとか現状を変革したいという日本国民の大方の意見が選挙に反映したのであり、さほど民主党に期待はしていないけど取りあえず政権を担当させてあげようという日本国民のお情けであるのでしょう。どちらかと言えば積極的に政治に関与して行こうというより消去法的に考えたら民主党に投票した、ってな人が大多数だったと存じます。一年前以前みたいな好景気が続いていたらまだまだ自民党は安泰だったでしょうし総理もあんなにクルクル替わらなくてよかったでしょうし鳩山弟氏も選挙中あんなに安っぽく“正義”を振りかざさなくてもよかったでしょう。
選挙は終わりました。それでも景気は悪い。で、わたしタバコ止めました。だって月に1万円以上タバコにかかってましたもの。体に悪いし。
ところが大方の予想通り、太るのですね。
ただでさえご飯がおいしくなった上に、収入は減る―経費は減らない=可処分所得は減る=ヤケ酒は増えるといいう恐怖の連鎖の前にわが体はメタボ予備軍から純正メタボへ順調に生育。血圧も高くなってきた昨今、医療費の増大は致命的でありますのでこれではならじとスイミングに精を出す今日この頃なのであります。(どう転んでもお金がかかるのね・・・)
でありますので新政権がしばらくは消費税を上げないというのであれば、どうせ歳入不足は火を見るよりも明らか。だったらタバコ税を上げて構いません。1箱1,000円でも問題ありません。(○○君にゃ悪いけど)
ですけど酒税は上げてはいけません。特に世界に冠たる日本国の宝である日本酒は。まァビール風味のアルコールが1本100円を切るというのもどうかと思うのでそっちは上げていいけど、日本酒は下げるようにお願いしたい。日本酒の酒税が下がり消費が増えれば米の減反がそれだけ減るから日本の農業のためにもなりましょう。
さて下の写真は萩の明倫小学校であります。藩校明倫館の跡地に昭和10年に建てられました。
萩の明倫小学校

久坂玄瑞は藩医の次男として生まれますが15歳で親兄弟と死別し天涯孤独の孤児となりました。明倫館では秀才の名で通っておりましたが17歳で松下村塾へ学びます。長身白皙の美少年であったそうです。「久坂は清潔、激烈であるから他の罪悪や濁りを容赦しないところもあるが、それでいながら縦横無碍の才があり、しかも自然に人に愛せられるところがある。」と松陰は語っております。
一方、久坂より1つ年長の高杉晋作は150石取り上士の長男として生まれ長じてはこちらも明倫館では成績優秀で将来は藩の重役へと嘱望されておりました。ところが松陰の噂を聞きつけ家人の反対を押し切って松下村塾へ通うようになりました。
松陰は高杉の俊敏と鋭気を愛しましたが、一面強情で人を人と思わない傲岸さのために大成しないのを憂い、まず久坂を立て然る後高杉を立てるということをしましたので高杉は発奮し大いに励んだといいます。
安政の大獄で松陰が処刑された後、松下村塾に学んだ50人余の門下生は松陰の意思を継ぎそれぞれ維新の志士として風雲を巻き起こすのであります。
なかでも藩論を尊皇攘夷に統一ひいては倒幕へと引っぱる牽引力となり、京都朝廷への働きかけにも政治力を発揮し、真木和泉守をはじめ諸国脱藩浪人の志士達と連携・組織化する指導力を持っていたのが久坂玄瑞であり、奇兵隊(正確には力士隊と一部遊撃隊)を以ってして藩論を倒幕にまとめ、征長の幕府軍を打ち破り明治維新への大道を切り開いたのが高杉晋作でありました。
ではありましたが、御存知の通り久坂玄瑞は蛤御門の戦いにおいて鷹司邸で自刃。享年25歳でありました。まったく以って稀有の人材がまた一人早逝したのであります。嗚呼。
このとき高杉は萩野山獄に繋がれておりましたので参戦できずさぞ悔しかったろうと思います。が、結局運命は高杉の回天を準備しておりました。この戦いののち2度にわたる長州征伐を乗り切った長州は薩摩と連合し倒幕へと大きく前進します。
高杉が長州に勝利をもたらした2次征長の翌々年の慶応3年、彼は下関で肺結核により死の床に着きます。
死の数日前高杉が詠んだ連歌の上句。
 面白き こともなき世を 面白く
野村望東尼(もとに)が続けて、
 住みなすものは 心なりけり
それを聞いた高杉は「ほほう、おもしろいのう。」と言ったとか。
最後の言葉は「吉田・・・」であったそうです。享年29歳。久坂に遅れること3年でありました。
ということで松陰神社編は終了です。お疲れ様でした。
それにしても萩はいい町でした。侍屋敷の家並がそのまま保存されているし、天守閣さえありませんが城跡を海に抱かれたような指月公園も散策に素敵だし、遊覧船に乗って近江八景ならぬ萩八景を尋ねるのも乙なもの。博物館も見応えあります。もちろん焼き物好きには堪えられない場所ですね。お茶椀は「一萩二楽三唐津」とか言いますし。それに海に面していますから当然サカナが旨い。楽しい夜を過ごしました。みなさんも是非一度ゆっくり遊びに行かれたらいかがでしょうか。路地や横丁に入り込んでみるのも面白いですよ。
さていよいよ10月に入り大同窓会も目前であります。当日はバタバタと忙しかった昨年と打って変わってお気楽な気分で騒げそうですね。それでは当日!
お会いしましょうね。
亭主敬白

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ふるさとのお社(8)
ふるさとのお社(8)
〜幕末編番外松蔭神社罅
かくすればかくなるものと知りながら
已むに已まれぬ大和魂  (吉田松陰)
時の経つのは早いもので今年もすでに9月の声を聞くようになりましたが、みなさんにはお変わりありませんでしょうか?
昨年の41回明善大同窓会からはや1年。感動のグランドフィナーレからあっという間のこの1年でありました。
来る10月11日の42回大同窓会は当然ながら49年卒の担当で、漏れ聞くところによればオミヤゲはフォークセットだそうな。メーカーはノリタケかしらね。だとしたら我らのスプーンセットとお揃いでヨカね。
で、ここだけの話ですが当日サプライズゲストが登場するげなです。もちろん明善卒で、九大まで行っちゃったロッケンローラー。もうお分かりですね。ですが当日まで秘密ということなんで名前は明かせませんがご当人には失礼ながら、その長いお顔が高杉晋作によく似ていらっしゃるんじゃありませんか?チョ〜バタ臭い高杉であります。高杉は短躯でありましたがこちらは長身で以前聴いた番組の中で「人生はロッケンロール」とのたまっていらっしゃいました。うううむ、じつにカッコいいのであります。が、ご存知の如く高杉も図抜けてロッケンロールな人生でありました。
というわけで無理矢理つないで萩の話に戻りまして。
松陰神社前下車、境内を真っ直ぐ東へ進むと松陰神社であります。
松蔭神社1

明治40年創建であり御祭神はもちろん吉田矩方命=松陰先生であります。通称寅次郎、名が矩方(のりかた)、字(あざな)は子義また義卿。松陰は号であります。二十一回猛子とも号しました。若い頃までの呼び名が通称、名が本名、成人してのち直接名を呼ぶのは無礼だということで中国式に字を設けてそれを呼び合いました。官名があればそれが優先されたようです。松平伊豆守、略して松平伊豆とか、まあ大体武家の話ですが。で号は俳人や画人など文人としての名ということになっておるようです。
正面の社殿は昭和30年に新築されたもので旧社殿は末社として松門神社と呼ばれ松陰の弟子42柱を祀っております。
ところで松陰神社は東京にもあります。じつは東京のほうが由緒が古い。安政6年井伊大老の大獄により松陰が処刑されました。享年わずかに30歳であります。処刑の2日後桂小五郎(のちの木戸孝允)・伊藤利助(のちの博文)らが獄吏から屍骸を貰いうけ小塚原に葬り4年後の文久3年高杉晋作らが今の世田谷の松陰神社の地に改葬したことに始まります。
さてお参りを済ませ、参道をバス停のほうに戻ります途中右手にあの有名な松下村塾が現存しております。
松蔭神社2

松陰のここでの教育は2年そこそこであります。
そもそも松陰は大変な秀才でありました。9歳から教授見習いとして藩校明倫館に出勤。11歳で藩主毛利敬親に山鹿流兵学を御前講義しております。20歳で外冦御用掛りに任じられ21歳で4ヶ月の九州遊学。その折肥後の宮部鼎蔵と肝胆会い照らす仲となりました。22歳のとき江戸へ遊学。そのまま藩の許可を得ず東北へ遊学したため脱藩と見なされ士籍を剥奪されますが松陰の才を惜しんだ藩主の温情により10年間の遊学を認められ24歳で再び江戸へ。そのとき待ち受けていたのが「ペリー来る」の報でありました。ただちに浦賀に赴き事情を探った松陰は藩主に向かい、各諸侯は本領に安堵せず広く天下のために乗り出し尽力せねばならないとの意見書を提出。自らは国禁を破って外国へ渡り見聞を広め勉強せねばならないとて長崎にむかいロシア線に密航しようとするも失敗します。再び江戸下田へ戻りアメリカ船に密航しようとしましたがこれも失敗。もはや発覚が免れないと悟った松陰は自首します。1854年幕府より長州藩へ送られ萩の野山獄(士分用)へと収監されました。
かわいそうなのが下田での密航のお供に志願した金子重輔であります。彼は長州藩の足軽でしたが松陰に傾倒し藩に迷惑がかかるからと脱藩して同行を懇願。意気に感じた松陰は許しましたが結局失敗に終わったのち金子も萩に送られます。江戸の伝馬町の牢に収監されていたときに罹った瘡が全身を広がったうえ結核性の痢病を患っていた金子は道中苦しみながら、松陰が入った野山獄の向かいにある岩倉獄(庶民用)に押し込められた翌年、松陰必死の助命嘆願も虚しく25年の生を終えたのでありました。
野山獄で1年2ヶ月が過ぎ松陰は実家の杉家にお預けとなります。幽囚の身ではありましたがまず実家の一室で、のち敷地内の小屋を改装しまた手狭になり増築し、身分の高下に関わらず教導したのが現存する上の松下村塾であります。
さて村塾の双璧と言えば久坂玄瑞と高杉晋作でありました。
というところでこの先をもう少し書いていきたいと存じますので、この続きは次回松陰神社腓任付き合いくださいね。
それでは10月11日の大同窓会で久し振り再会いたしましょう!!
亭主敬白
気がつけば来月は明善大同窓会であります。あっという間の1年でしたね。

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ふるさとのお社(7)
ふるさとのお社(7)
〜幕末編番外松蔭神社紂
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂
(吉田松陰『留魂録』より)
ひと月振りのご無沙汰ですが、みなさんお元気ですか?
毎年ながら梅雨のこの時期はジトジトと気鬱になりがちですが、パキッと気分を換えて楽天で行きましょうゼ!・・ということで、わたくしこの度ひょっと思い立ち例の土日高速道千円乗り放題というのを利用して山口県は萩に行って参りました。で、急な話で申し訳ありませんが前回予告の平野二郎国臣編は次々回へ順延いたします。
久留米から高速中国道美祢インターまで2時間、それから一般道で1時間の道のりであります。人口54,000人の日本海沿いの町で本土とは言へ九州から見てもちょっと不便なところにありますね。
萩は江戸時代に長州藩政庁があったところであります。関が原の戦いで西軍の総帥に担がれた毛利輝元は敗戦により所領を中国8ヶ国120万石から防長2ヶ国37万石に削られました。関が原では一兵も動かさないうちに義理婿小早川秀秋の裏切りにより敗軍の総大将になったわけですが、家康と同じくらいの大藩であった輝元が東西拮抗するこの戦さで最後に漁夫の利を得ようと日和見していたための結果であったようでもあります。またその後の国替えでは幕府の意向により、候補地として挙げた山口・三田尻(防府)・萩のうち最も不便な萩に広島から藩政庁を移し築城しました。指月(しづき)城(萩城)であります。(下図の左上出っぱり一帯。なお濃い緑は山、薄い緑は海と河)
まあここであったればこそ結果的に良かったかと存じます。戦災にもあわず歴史的遺構が数多く残っているんですもの、うらやましい限りです。
萩の地図

さて土曜の昼前に東萩駅前のホテルに到着。車を置いて市内巡回バスであるところの“まぁーるバス”を利用しました。上はその路線図で青路線(東回り)赤路線(西回り)がありそれぞれのバス名は松陰先生号・晋作君号であります。観光地を網羅したこのフットワーク、じつにヨカですな。ネーミングもグッドであります。
乗車賃は一回100円。京都も1日乗車カードがありまして随分助かりますので、ついここの500円1日乗車バスカードを買いたくなりますが、必要ありませんです。ダイヤが30分に1本ですし碁盤目の市街地はそう広くなく結構歩いて回れますのでその度払ったほうがお得です。(都合100円くらいのお得ですけど)
それでは早速松陰先生号に乗ってまずは観光客には不案内な反射炉跡から。「萩しーまーと」下車徒歩5分。うらぶれた公園の一角にそれはありました。
反射炉

すごいですね。高さ11.5メートルの煙突部分だけですが写真のようにまだ原型をとどめております。ほぼ完全な姿で現存しているのは他に伊豆韮山にあるものだけだそう(行ったことないけど)ですが、そちらは大人100円也の見物料など取って観光コースに組み入れてある一方こちらはタダで朽ちるに任せております。どちらも同じく大正年間に指定された国指定の史跡なのですが、地の利の違いでしょうか。ただそれでも高さがありますから鹿児島仙厳園にある反射炉基底部跡よりずっと迫力があり看板に書かれた説明文も分かりやすかったのは旅行者に親切で、観光用に手入れが行き届いたわりに説明が分かりにくかった薩摩藩より長州藩の方が馴染みやすそうな印象を受けたのでした(単純ね)。ちなみに反射炉は鉄鉱石から銑鉄を取り出す溶鉱炉の一種だそうで、石炭や木炭の熱や炎をドーム状の内壁に反射させて鉱石を溶かす構造になっているそうであります。また内部をより高温にするため(鉄内部の炭素をより減らすため、つまり酸化ね)煙突を出来るだけ高くする必要があったそうです。
幕末の嘉永4年(1851年)、反射炉はまず佐賀藩が最初に作りましたが、そもそもは伊豆韮山代官だった江川太郎左衛門英龍が銃砲製造のため建設を志し書物だけから小型の反射炉を作り出すところまで行ったのにも拘らず本格的に作るための資金を幕府から貰えず計画が頓挫していたところ、佐賀藩藩主鍋島閑叟が江川の開明なのを聞きつけ三島で邂逅したのが縁で佐賀藩へ製法の技術伝授と技術者派遣となったことから佐賀藩の快挙となった次第。
何故佐賀藩かと言えば鍋島閑叟の先見の明と佐賀藩の豊かな財政と耐火煉瓦としての有田の磁器があったからこそであります。隣接の福岡藩や久留米藩と大きく違い、明治維新の藩閥薩長土肥の一角として肥前佐賀藩はこの反射炉から作ったアームストロング砲で名を成しましたけれども維新前夜の人物春秋では佐賀藩はいまいち話題に挙がりませんね。閑叟殿様は偉かったけれど偉過ぎて勤王か佐幕かの藩論がはっきりせず志士の声も聞こえてきません。鳥羽伏見の戦い以降にもっぱら大砲と洋式化した藩兵だけで薩長に続いたという感じであります。維新後は江藤新平・大隈重信・副島種臣など輩出しておりますが。
ところでこのアームストロング砲や蒸気船の機械装置を作ったのは久留米出身のカラクリ儀右衛門こと田中久重であります。佐賀に10年ほど奉職したのち久留米に帰りまた10年ほどして明治6年上京。銀座に器械製造所を開きますがこれがのちに“東芝”になりました。なかなか久留米に居ながらにして事を成すには難しかったのでしょうね。
話は戻りますが幕臣でありながら渡邊崋山・高野長英と親交があり尚歯会のメンバーでもあった開明派の江川太郎左衛門英龍は偉かった。
時の老中は水野忠邦でありました。彼は天保の改革の一環としてアヘン戦争などを踏まえ外圧に備えるため軍制改革を図ります。このとき高島秋帆の砲術を幕府の軍制に生かそうと長崎から高島を呼び寄せます。この折反対したのが後に町奉行となり妖怪と呼ばれ蛇蝎の如く嫌われた鳥居耀蔵で、賛成の意見書を書いたのが江川であります。蛮社の獄で江川は随分と危なかったのですがその張本人鳥居耀蔵に関してはすんごく面白いのでまた機会があったらお話ししたいと思いますが、ともかく江川は出府した高島に入門。のち高島流砲術師範として江戸で佐久間象山など門弟100人に教え韮山に帰ってからも代官所(江川屋敷)付設の屋敷内で通称韮山塾と呼ばれた教室を開き、徹底して実用主義の西洋兵学や銃砲学とその製造を門弟達と研究しました。その延長上に反射炉の設営があったのです。ですが結局幕府がOKを出しやっと建設したのが嘉永7年 、ペリー来航の翌年のことでした。この間伊豆代官としてペリーとの対応や折衝、幕府当局との軋轢などでかなり心労が重なったのでしょう、翌年の1月16日55歳で急逝しました。明治維新の13年前でありました。
江川英龍について付け加えれば彼はまた『パン祖』でもあるそうです。秋帆一門にパン職人がいてこれを韮山に呼び寄せパン窯を作らせて乾パンを焼かせたそうな。西洋の軍制を研究するうち軍用携帯食として、また天保の飢饉を経験した上での救荒食料として着目したという経緯だそうで、江川屋敷内には全国パン協議会が江川をパン祖として顕彰する碑が建っているそうであります。
なんだか凄い人物でありますね。幕府の側にも、残念な事に亡くなるのが余りに早すぎた人物がおりました(当然ながら、ね)。
ところで、ここ萩に反射炉が出来たのがその翌年の安政3年(5年説もあり)であります。ただし、初めのほうで書いたようにこちらの説明書きの看板には「反射炉の遺構が現存するのは伊豆韮山と萩だけ」となっておりますが、韮山の反射炉がある“伊豆の国”市(こんな市があったのね)のHPでは「建設当時の反射炉が現存するのはここだけです」とビミョーに唯我独尊のコメントであります。ま、地震による崩落予防に鉄の輪ッカがハスカイに噛ませてあるのはご愛嬌ですか。
でもこの反射炉、最初場所が分からず通りがかった高校生に聞いたのですが地元の彼も知らなかったくらいマイナーな存在なのはやはり問題でありますね。先ほどの看板の後のフレーズには「わが国の産業技術史上たいへん貴重な遺跡」とあるのですが・・・。
ま、とは言へこの一発目は地味なモニュメントだし、これから巡る所はもしかして150年前の姿で残っているものが絶対あるよね〜なんせ街中戦災に遭ってないんだからして・・と思いながら再び松陰先生号に乗ったのでありました。
あらま、すみませんね、反射炉だけで終わってしまいました。次回は松陰神社を訪ねます。
亭主敬白

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ふるさとのお社(6) 〜水天宮ニ詼編〜
ふるさとのお社(6) 〜水天宮ニ詼編〜

恋ひわたる妹(いも)の門べの川の名の千歳の契りかはらずもがな
(真木和泉娘お棹へ平野国臣が送った歌)

今日から6月。今年はヤケに早く桜が咲いた割には寒さが戻り長いこと花見が楽しめて随分得したような気がしておりましたが、晩春から6月に入っても朝晩がずっと爽やかでとてもしのぎ易い今日この頃、みなさんには如何お過ごしでしょうか? ※みのる2009年6月1日の脱稿です。

昨年の今頃はタスキ掛けの故田中英明委員長を先頭に、出来上がった大同窓会のチケットを各学年に割り振って購入をお願いし、いよいよ大同窓会当日に向けてカウントダウンが本格的に始まったのを鮮やかに思い出します。

・・・私も含めて誰かにいつか来るものと思ってはいてもあんなに突然だったとは、今さらながら残念であります。

 つひに行く道とはかねて聞しかど
       昨日今日とは思はざりしを (在原業平)

 諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽  (『涅槃経』より)


「世の中のもろもろのことで確かなものは何一つないが、ただただ生き死ばかりはこの世の定め。であるから苦しみに苛まれるのである。生死へのとらわれを失くし去ること。その後に楽があるのである。」と仏教は教えていますが、何を言っとるんだ、そう簡単に言われてもそんな悟りなんて出来るわけがないだろうが!と言いたくもなります。

結局どんなにがんばっても愛別離苦の苦しみからは一生逃れられないでしょう。だけどそれでもなにか救いを求め続けるのですね。

引き続き水天宮編であります。

前回、寺田屋に平野国臣と清河八郎の姿がなかったと書きましたが、まずは清河八郎の話から。

大坂の薩摩屋敷に入った清河でしたが、4月13日本間精一郎らに誘われて船で遊びに出かけます。むかしは川に船番所というものがあって怪しいものが通ると誰何(すいか)しておりました。そこへ通りかかった清河一行は酒に酔ったか若気の至りか悪ふざけの度を過ごし無礼を仕出かしたようです。

これより先、安政5年井伊直弼の大老就任以降いわゆる安政の大獄や開国による物価騰貴などで世情不安な中、江戸にいて文武兼授の私塾を開いていた清河のもとに続々と国政を憂うる青年が集っておりました。いずれも水戸学の洗礼を受けておりますから翌々年桜田門外の変で水戸浪士らの手により井伊が暗殺されますと一挙に過激に傾いてきます。一方幕府の方も不穏な浪人たちを察知し清河はマークされ始めます。そんな中アメリカ公使館の通訳ヒュースケンが斬殺されました。どうやら清河や門弟の伊牟田尚平らの犯行だというので探りに来た小者を清河、エーイ面倒だとばかり斬ってしまいます。その頃までに幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)も同志に加わっており、彼の勧めもありそのまま江戸を離れ諸国放浪(というか諸国遊説)の旅に出ます。もちろん幕府の捕吏に追われる身の上でした。

結局船番所の件で、あれが手配中の清河では?ということで問題になり大坂薩摩屋敷を追い出されてしまいました。それが4月13日。寺田屋事件が4月23日ですので、それでも有志等と連絡さへ密にしておれば当然清河も寺田屋にいたはずなのですが。一説に拠れば一緒に薩摩屋敷に入った田中河内介と大喧嘩したために清河は離脱したとも。なんにしろ才子にありがちな軽薄さを多少感じますな。

さてここからが彼の面白いところであります。

8月ころ彼は江戸に舞い戻ります。内妻が彼の罪に連座し同月獄死していたにも拘わらず、同志の旗本山岡らを通じて幕府に対し将軍上洛に先立ち警固のため浪士隊(=新徴隊、ただしこの名は江戸に戻ってから)設立を建白するのであります。その頃の京は天誅という名の下の暗殺がやたら流行り治安が悪く幕府としても手を焼いていましたので渡りに船、毒をもって毒を制すということでなんとも御都合主義ですが清河の罪を許し入獄していた門弟を釈放の上、2500両を下賜し将軍警護のための浪士隊の結成を許します。当初の人員の予定は50名でありましたが234名もの応募があり幕府を驚かすほどでしたが玉石混交、浪人もいれば郷士もいる、農民で剣術の達人もいれば博徒もいる。清河は「ともかくも京へ行けば何とかなる」といって浪士隊を率い上京しました。(ただし清河が浪人のため代表は別の幕臣旗本=鵜殿鳩翁のち高橋泥舟(山岡鉄舟義兄))ときに文久3年2月のことでありました。(このころ真木和泉は寺田屋の変の一件で久留米に幽閉されております。)

ここまでは幕府の目論見通りでしたが、さて京に着いた清河は隊員を前に一席ぶちます。いわく「われらは尊皇攘夷の尖兵として一身を挺し報国のまことを尽くすために今日ここにおる。幕府の世話で上京はしたが、たとえ幕府の意向に逆らうようなことがあっても大義を貫くつもりである。」すなわち天皇に攘夷を建白し勅諚(ちょくじょう=天皇のお許し)を頂きこの浪士隊を、攘夷を行ういわば天皇の軍隊とするという大どんでん返しの奇策であります。

この建白がまたまた認められるんですね。清河八郎という人は一介の浪人でありながら幕府・朝廷両方に太い人脈を持ち人に過ぎる才気に恵まれていた上に時流が彼を押し立てていたのですな。幕末はこういう人物のオンパレードでありますが、長生きできた人は数えるほどしかいなかったのもまた事実であります。

清河が攘夷の勅諚を頂いたと知った幕府は仰天します。

一計を案じた幕府は「昨年8月の生麦事件(島津久光帰国時の英国人無礼討ち事件)の後処理に苛立った英国が江戸に軍艦を差し向けるそうである。ついては早急に江戸に戻り事態に備えよ。」と清河他浪士隊を呼び戻そうとしました。

攘夷を掲げる清河は不承不承江戸に戻ろうとしますが、浪士隊の内あくまで将軍警護のため京都残留を望むものが20数人おりました。武州郷士の試衛館一派の近藤勇らと水戸浪人芹沢鴨らであります。彼等は京都守護職松平容保に交渉。京に残り市中警護と不逞浪人(尊攘激派)の取締りを任されます。その名も壬生浪士隊、のちの新撰組でありました。

ここが歴史の皮肉でありますね、天皇の軍隊を作るつもりが勤王の志士を抹殺する集団をこさえてしまったという。2年後池田屋事件が起こり、9名が斬殺され翌日にかけ20数人が捕まり拷問の末斬られております。

尚、このとき池田屋から辛くも脱出した志士の中に元久留米藩士渕上郁太郎がおります。1年前の禁門の変でも真木に従い天王山に行きながら落ち延び、この度のこともあってスパイではないかと疑われ後日同志に斬られております。

なんとまあ殺伐とした時代であったことよ。

3月18日江戸に戻った浪士隊は待機のまま割り当てられた宿舎に留め置かれます。山岡鉄舟は、幕府が清河に対し粛清を図るやも知れぬからくれぐれも身辺に気をつけよと忠告します。

そして4月13日。清河は風邪気味なのをおして知人の上之山藩士金子与三郎との約束のため外出。途中高橋泥舟宅に立ち寄ります。そのとき認めた歌が辞世となりました。

  魁(さきが)けてまた魁けん死出の山

  迷ひはせまじ皇国(すめらぎ)の道

あまりに死を意識した歌なので高橋は不吉に思い再三外出を切り上げて家に戻るように言いましたが、約束であるからと出かけて行きました。上之山藩邸での金子との会合の後したたか酒に酔った清河が編み笠を被り新堀川沿いをぶらぶら歩いていくと「これは、清河先生ではありませんか?」ふと見れば佐々木只三郎と速見又四郎でありました。ともに浪士隊として上京した顔見知りの旗本であります。二人は被り物を脱いで丁寧に会釈します。清河がそれに応えようと編み笠を取ろうとしたとき背後から刃一閃、清河の頭が割れて鮮血が飛び散りました。佐々木の同輩窪田千太郎でありました。ドウと倒れたところを佐々木・速見が斬りつけ仕留めたことを確かめると足早に立ち去りました。享年34歳。なお老中の指図により金子と佐々木らが示し合わせて暗殺したという説もあります。

4年後の慶応3年、佐々木は京の近江屋での坂本竜馬・中岡慎太郎暗殺も指揮したとされます。これらの功により禄は1000石に加増され京都見廻組与頭となりますが、翌年の鳥羽伏見の戦いで負傷の後あっけなく亡くなりました。35歳でありました。

古来、サムライの心得とはどんな手を使っても勝つというものでありましたが、江戸時代に入り儒学と武士道が結びつくようになると卑怯な振る舞いが嫌われる風潮となりました。でも殺伐な幕末には天誅だの暗殺だの、寝込みを襲ったり後ろから斬りつけたりと卑怯もヘッタクレもなくなりましたね。が、やはり人殺しの末路は総じて悪かったようです。まあ、実際手を下した者に限ってですが。黒幕が誰だったか、どんな死に様だったかは結局は歴史の闇の中であります。

ということで清河八郎編は終わりです。あまり水天宮とは関係が薄かったですね。ですが次回は平野国臣編でありましてグッと身近に感じられるべく鋭意努力したいと存じますので請う、御期待。

ヤレヤレ、疲れましたワ。           亭主敬白

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ふるさとのお社(5) 〜水天宮に詼編〜
ふるさとのお社(5)〜水天宮に詼編〜

一日(ひとひ)だに妹に恋ふれば千歳川つひの逢瀬を待つぞ久しき
(真木和泉娘お棹へ平野国臣が送った歌)

あっという間にゴールデンウイークも終わりましたが、みなさんその後お変わりありませんでしょうか?
※みのる2009年5月14日の脱稿です。
 
黄金週間中、当方は申し込んでいたETCも間に合わずテレビで中継する高速道路の大混雑を半ば喜びながらビールを飲んでおりました。やあ、すごかったですね。地方の高速ですと土日祝日にかかればどこまで行っても上限1000円ですから大渋滞も無理からんな、でありました。青森まで行っても千円だもんね。
けれど景気浮揚とはいえ定額給付金をはじめこんなに政府が大盤振る舞いしてよいものでしょうかね?なんだか選挙対策用の予算垂れ流しのようだし、急ごしらえの予算は当然官僚主導だからお役人用にもいいとこあるよう作ってあるでしょうね。
・・・なんか日本人って政府を信じてないところがあるけど、マァしゃーないか、と思って受け容れているとこあるよね。あれ、なんでしょうね?日本国民は基本的に性善説を信じて政治家も役人もこの国を悪いようにはしないと、みんなして羊みたいな期待を持っているんでしょうかね。ただ、こんだけバラまいたら再来年当たり消費税10%は間違いなく行くでしょう。
なにはともあれいくら不景気とはいえ鼻先のニンジンに踊らされているという感じがしているのは私だけじゃないと存じます。ま、詳しくは毎月トップのユージ君のコラムでガツンと糾弾してもらいましょう。

さて水天宮のお話がヤケに長引いておりますが、今回の出だしは薩摩藩のことであります。
薩摩藩島津家の九州での歴史は古く鎌倉時代に御家人島津家が頼朝の命により日向の地頭として任官した頃にさかのぼります。以後曲折もありましたが幕末まで薩摩大隈77万石の大名として存続しました。ご存知のように明治維新は薩摩藩(長州藩も)を中心に回天したのですがそのためには当然資金が必要であります。江戸時代も中期を過ぎるとどの藩も慢性の赤字に苦しんでいましたその中で薩摩藩はどうやって幕府を転覆へ追い詰めるほどの資力を得たのか?
1830年当時、それまでの借金と8代藩主重豪(しげひで)の蘭癖と豪奢な生活費も加わって薩摩藩の借財500万両!現在に直すと3000億円!この借金をどうしたか?
年2万両(1200万円)返済の無利子(当時の利息は普通年1割でしたが)250年賦!要するに踏み倒しでありました。これにより倒産する大名貸の商人が続出。まあ熊本藩54万石細川の殿様も似たようなもので悪評は三都に鳴り響いておりましたが。
こうして借金はチャラにしましたが倒幕の費用はどう捻出したか?
隷属させた南西諸島々民からの収奪であります。一つはサトウキビからの砂糖生産と専売。もう一つは琉球経由の密貿易であります。(薩摩藩の圧政による悲話が方々の島に伝承されております。ご興味のある方はお調べ下さい)こうして14年後の天保15年(1844年)には藩庫には150万両!が積み立てられておりました。薩摩藩の苛政がいかに徹底したものであったかを物語っていますね。

さてさて名君の誉れ高かった11代藩主斉彬の死後薩摩藩は藩主忠義の実父久光が実権を握っておりました。久光の信任が厚かったのがNHK大河ドラマ『篤姫』でお馴染みの家老小松帯刀(たてわき)と大久保利通であります。
前回は平野の『尊攘英断禄』を携えての3度目の薩摩潜入を書きましたが、公武合体論者である久光は尊攘の志士だの憂国過激な浪人なぞ大嫌いでありましたので、久光の本心を知る大久保は久光の手許金から10両を与え平野を労いますが結局この建白書を久光に取り次ぎませんでした。ただこの時平野は有馬新七ら藩内尊攘派(精忠組)左派と会談。このことが後の寺田屋事件に繋がっていきます。
1862年(文久2年)3月16日中央進出をもくろむ久光は意気揚々と京を目指し鹿児島出立。朝廷から幕政改革の勅命を受け江戸に乗り込もうというのであります。
ところが自藩や各地の急進派志士は久光のこの行動を倒幕の動きと取りました。幕法で許されていなかった大兵を率いての上洛に加え、西郷を行軍の露払いをさせる薩摩に対し尊攘の志士たちは狂喜、続々と上京するなか浪士たちの参謀格清河八郎は田中河内介らとともに大坂薩摩藩邸長屋に入ります。(当時不穏な浪士等を野放しにするより自らの監視下に置き自藩の尖兵にするという薩摩藩の方針でありました)また長州勢では久坂玄瑞、寺島忠三郎他19人が土佐勢の吉村虎太郎・宮地宜蔵等とともに大坂蔵屋敷に待機し、これに加え長州国許より百余人が浦靱負(ゆきえ)に引き連れられ上京の予定でありました。

そしていよいよ4月1日真木和泉が脱藩して久留米を発ちます。水田に蟄居を命ぜられて11年目でありました。

一方、平野は先発の西郷を馬関(下関)に尋ね京阪における挙兵計画を打ち明け薩摩藩の武力による応援を依頼、西郷は内諾しました。その計画とは「京都所司代酒井忠義と関白九条尚忠を討ち取り、相国寺に幽閉されている青蓮院宮をお救いし征夷大将軍推戴すなわち討幕の詔勅を頂く」というものでした。
久光に馬関で待機して本隊に合流するように命ぜられていた西郷ですが、無断で急遽大阪に上り平野等の挙兵に備えようとしました。すなわち平野等に呼応し遮二無二久光を動かして薩摩を中核にした倒幕の軍を興し一挙に江戸に攻め上ろうと。ところが西郷は目論見違いをしていたのです。
当然、違命した西郷に久光は激怒。西郷の真意を糺せという久光の命を受けた大久保は伏見に西郷を尋ねます。このとき大久保が西郷の思いに反しその計画を時期尚早として今は自重すべきだと説得しました。
結局西郷はその説得を受け入れ藩の方針に従うことになります。ここが運命の分かれ目でありました。(幕末は運命の分かれ目のオンパレードですけど)

4月8日西郷隆盛久光の命より謹慎。11日帰国を命ぜられる(のち沖永良部島へ配流)
同14日有馬新七・田中謙助・柴山愛次郎・橋口伝蔵ら薩藩急進派久光の態度に不満を募らせ義挙の決行を18日と定む。
17日久光側近より柴山らに主君の慰撫を伝え、決行日を延期させるが欺瞞であったことが判明。決行日を21日に決定。
19日大久保、有馬・田中(河内介)と会い自重を求めるが有馬ら拒否。
21日真木和泉ら着坂。柴山・橋口と会談。
22日真木和泉ら京都薩摩藩邸長屋に入り、田中(河内介)らと連絡を取り合い義挙決行を23日とする。
23日当日。同志の面々薩摩藩邸を出て船で伏見の船宿寺田屋へ向かう。一方久光この日計画の決行するのをはじめて聞き驚愕。大山綱良ら9人を寺田屋に遣わし主だったものを藩邸に連行するよう命ずる。「もし素直に命を奉じない際は、いかがいたしましょうか」久光は思案ののち言い放った。「いたし方ない。臨機の処置をとれ」
午後10時頃9人は寺田屋へ到着。藩邸へ出向くよう有馬らを説得しますがどうしても聞き容れません。討手側の道島「どうしても聞かんといわれるのか」田中謙助が答える「ああ、聞かん。こうなった以上なんと言われても聞かんぞ!」とたんに道島は、上意!と叫ぶや抜き打ちに田中に斬りつけました。壮絶な同士討ちが始まります。
有馬は刀を抜いて道島に斬りかかっていきました。有馬は神影流の手だれ、道島は示現流の名手であります。双方一歩も譲らず5,6合斬り結ぶうち、有馬の刀が鍔元からポキリと折れました。刀を投げ捨てた有馬は猛然と道島の懐に飛び込み込み彼を壁に押し付けます。同志側の橋口吉之丞が有馬を助けようとしますが、二人がもみ合ってなかなか近づけない。有馬は怒鳴った。「おいごと刺せ!おいごと刺せ!」橋口この時二十歳。逆上しきっております。「チェストー!」渾身の力を込めて刀を突き刺します。両人を串刺しにして壁に縫い付けました。 有馬新七、行年38歳。西郷の2歳上でありました。
このとき2階には真木和泉ほか諸国の志士等が多数おりましたが、大山綱良が刀を投げ捨て必死の説得をします。薩摩人同士の惨劇を目の当たりにした彼等も再起を期し涙を呑んで投降しました。
この寺田屋事件で同志側の死者は負傷後の切腹を含め9人。討手側死者1人、重傷者3人、軽傷2人。憐れだったのは、双方とも精忠組のメンバーであったことでした。まさに「豆を煮るに豆ガラを以ってす」でありました。さらに投降した志士等は、真木和泉が久留米藩に送られたようにそれぞれ出身の藩に渡されましたが引き取り手のない田中河内介親子、千葉郁太郎(田中の甥)、島原藩士中村主計、秋月藩士海賀宮門の5人は薩摩藩預かりとなり薩摩に護送中播州沖の藩船の中で斬殺され屍骸は海中へ投げ捨てられました。薩摩藩目付の命令で酷薄にも寺田屋の同志に斬らせたのですが、西郷がのちにこれを聞き「もう薩摩は勤王の二字を口にすることは出来ん。とんとこれまでの芝居であった」と言ったほど幕末維新史上の一大汚点でありました。
また後日談として明治になってから、ある席上明治天皇が「中山大納言家に田中河内介という家臣がいた(明治天皇御幼少の頃田中は大納言家諸大夫として少しの間天皇の教育掛を勤めた)が、その後どうして居るか」と聞かれ、居合わせた大久保参議らは返答のしようもありませんでしたが、かつて事件のとき寺田屋2階に同席していた元竹田岡藩士小河一敏という者が進み出て薩摩船上で処刑されたと申し上げたのに対し、大久保は一言も発せず顔を伏せたままであったといいます。陰険な事にこれ以降小河はまったく昇進できなかったといわれております。

という次第で義挙は決行前に挫折してしまいました。
尚、寺田屋事件に平野国臣も清河八郎も連座しておりません。その顛末はまた次回で。
                       亭主敬白

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ふるさとのお社(4)〜水天宮〜
ふるさとのお社(4)

〜水天宮〜

とうとう桜の花も4日の雨で散り初めてしまいましたが、その後みなさんいかがお過ごしですか?今年もまた往く春を惜しみつつ花見など楽しまれたでしょうか? ※けんおじ注:みのる2009年4月の脱稿です。

私は相変わらず酒を携え小頭町公園で2度、石橋文化センターで1度夜桜見物とシャレてみましたが、お陰さまで願った如く今年は長く花がもってくれて結構でありました。花佳し、友佳し、酒も佳し、いやはや例えれば人生の70分の1の楽しみの宴でありました。(まあ、もって70歳の寿命としてね)

桜を愛でる心は、ホルモン的に言って、恋をする心と一緒なのだそうです。脳から分泌されるドーパミンのなせる業だそうですが、そう言ってしまえば無粋な感じではありますけど、日本人の“色好み”は遺伝子として上古より連綿と受け継がれているのですね。

さて前回の続きであります。

面会を断った和泉守に平野国臣が送った歌は、

世の中にひき乱されて四つの緒のひとをも今はしらべあはなくに

いや〜、昔の人は偉かったんですなァ。

和泉守が琵琶をよくすることを知っていた彼は即興でこう歌ったのでありました。因みに緒は琵琶や琴などの弦のことです。

「いまや時局危急の時なのにあなたは藩の命令を恐れて誰とも会おうとしないのですか。(当局を慮って心乱れ琵琶の4本の糸の1本さえも調べが合わないのでしょうか・・・意気地がないじゃありませんか)」

ひと(一)緒も=人をも、あは(合は)なくに=会はなくに、という具合に上手にかけてあります。国臣の笛が達者なのもあってか、旨いもんですね。

こうまで言われた和泉守は会わないわけにはいかず、しかしそのあとすぐ意気投合した事はここに敢えて書くまでもありませんがその日の和泉守の日記には国臣をして「恋闕(れんけつ)第一等の人」(純粋熱烈第一等の勤王の士)と記されております。その夜は門弟の家に泊めますが国臣は翌日またやって来て大いに歓談し、和泉守もよほど国臣が気に入ったのか自分の寄寓先の弟の実家である大鳥居家(弟の養子先である水田水天宮の宮司家)に連れて行き甥達に国臣の話を聞かせたということです。時に和泉守48歳、国臣33歳。この後も二人の交際は一層深まり、翌年には和泉守の妹お棹と国臣が恋に落ちることになります。・・・とはいうもののこの二人の英傑に残された歳月はわずか4年でありました。

さてその頃、中央情勢はというと井伊大老暗殺の後幕閣の方針は朝廷との協調路線に転換し孝明天皇の妹和宮を将軍家茂に降嫁させるといういわゆる公武合体論が主流になっておりました。なかなか朝廷のほうがウンと言わなかったのですが1860年(万延1年)ようやく話がまとまり翌々1862年の2月御婚儀と決定しました。ところが尊攘派は公武合体には反対です。和宮が幕府の人質なるとしか考えておりません。そこで起きたのが坂下門外の変であります。

厳重警固で登城中の老中安藤信正が水戸浪士4人を含む6人に襲われ軽傷を負った事件でありました。華々しく公武合体を謳う幕府の腹積もりが水泡に帰すどころか幕府の威信の低下は誰の目にも明らかになって参りました。

一方、1861年九州であります。

蟄居中の和泉守のもとにまた一人の男が尋ねて参りました。

出羽庄内出身清河八郎。策士であります。庄内藩の富裕な郷士の家に生まれ若くして江戸に出て儒学・国学・剣術を修め諸国を巡り尊攘志士らと交わっておりましたが、京都にて公卿中山大納言家諸大夫の田中河内介と語らい、九州の尊攘志士を糾合し上京させるべく九州にやって来たのでありました。これは青蓮院宮(後の中川宮、明治8年に久邇宮)を征夷大将軍に押し立てて攘夷を決行するという遠大な計画であります。

さて和泉守を尋ねた八郎の感想が残っております。曰く「そのてい五十位の総髪、人物至ってよろしく、一見して九州第一品格あらわる。すこぶる威容あり。」また和泉守が八郎の計画に同意し、この切迫した情勢である以上一族ことごとく挺身すると誓ったので、その赤心の精なるに覚えず感涙を催したとも書き残しております。事実3年後の禁門の変では一族引き連れて参戦いたしました。

また八郎は肥後に潜伏中の国臣に会います。この時の会談ののち国臣が書き上げたのが薩摩候への建白書の体裁をとる堂々7千余語の『攘夷英断禄』であります。

すなわち「日本今日の急務は外難を克服し国の独立を確保することであるが、そのためには挙国一致体勢をとることが絶対寛容である。挙国一致は薩摩のような富強な大藩が奮起すればわけなく出来るのである。兵を率いて東上し天下に義民を募り青蓮院宮を将軍とし、鳳輦(ほうれん=天皇の乗る車)を奉じて箱根に行在所を置き幕府の降を促し、幕府が罪を認めるなら寛恕として諸侯となし、然らずんばこれを伐つ。かくて日本は天皇を中心とするもっとも強固なる結束の国となるのである。」という内容でありますが、これはまったくもって前回ご紹介した和泉守の『大夢記』を下敷きにしているのは疑うべくもありませんね。

ともあれ国臣が和泉守や八郎にこの建白書を見せますと二人ともこれを薩摩の国父(島津久光)に献じろと言います。で、国臣は薩摩に3度目の潜入を図ります。そのときに歌ったのが、

わが胸の燃ゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山

平野国臣は詩人でありました。

というところで今回は終わりであります。

結局この建白書は久光には届けられませんでした。がしかし、この頃から陸続と九州の志士たちは京を目指します。さらに尊攘派が台頭する長州も藩を挙げて京に向おうとします。そしてついに1862年3月久光が藩兵1000人を率いて上洛のために薩摩を出発しますが・・・。

こののちの真木和泉守、平野国臣、清河八郎の運命やいかに。

次回の水天宮い如宗宗(引っぱり過ぎかしら)
         亭主敬白

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ふるさとのお社(3) 〜水天宮◆
「みのるの古文書談義」ふるさとのお社ー3
      ふるさとのお社(3)
        〜水天宮◆
“梅は咲いたかァ、桜はまだかいな〜ァ・・”
今年の桜の開花日が発表されました。3月の17日だそうで例年より9日も早いそうです。またしても地球温暖化の影響か?なぞとつい地球の未来にナイーヴになりそうですがともかくも私早く咲いてくれるのに文句はありません。でも長く咲いててくれて欲しいですね。お花見は何度でも結構であります。満開の桜の下、盃にヒラヒラと散る花びらを浮かべ友人達とワイワイと酌み交わす酒ほど旨いものはありませんのでこういう慶事が幾度あってもいいなあと願っております今日この頃、みなさんお元気でしょうか?
(毎年今頃はワンパターンなこんな出だしで恐縮ですが・・)
 ※けんおじ注:みのる2009年3月の脱稿です。
筑後川と水天宮

では前回の続きを。
春風駘蕩たる水天宮の近影であります。
真木和泉の銅像

境内に立つ真木和泉の銅像。
幕末、九州勤王党の巨魁と仰がれた真木和泉守保臣は文化十年(1813年)ここ水天宮の第21代宮司真木旋臣(としおみ)長男として生を受けました。幼名湊(みなと)。当時旋臣は久留米藩の馬廻格(うままわりかく)で知行150石でしたが湊11歳のとき他界。すぐに家を継ぎ保臣と改名。20歳で神官として朝廷より従五位下和泉守に叙せられました。よって「従五位下和泉守平朝臣保臣(じゅごいのげいずみのかみたいらのあそんやすおみ)」と正式には名乗ります。(社伝に拠れば真木氏は平知盛の孫の平右忠の後裔となっております。因みに徳川家康は源氏。織田信長は平氏という)
幼時に絵本楠公記を愛読し早くも楠木正成の勤王を敬慕。長じて我らが母校の前身である藩校明善堂で英才の誉れ高く国学・儒学・漢詩文・和歌・武芸の研鑽に励み琴・琵琶にも堪能であったそうな。32歳で当時勤王藩として天下に名だたる水戸藩に遊学。帰国後久留米藩主に藩政についての意見を進言し藩政改革をのり出しますが嘉永5年(1852年)藩内保守派の抵抗に会い只今の筑後市水田に蟄居を命じられました。時に40歳。
すでにこれに先立つ7年前藩主宛の建白書に、「諸大名の封土が幕府より与えられたごとき様相を呈し、将軍大名間に君臣関係があるように見えるが真実は、もとより尺土一民も王朝の有にこれある儀は疑いもなく従って将軍大名間に真の君臣関係は存在せず、御大名方はなおさら王朝に心尽くすべき道理である」と主張しております。水戸学の洗礼を受けたにせよ1846年時点で藩主に向ってこうも先鋭的にまた先見性があったとしても幕府の非正当性を建白するのでありますから藩当局から要注意人物と見られていたのでしょう。
和泉守が蟄居した庵である山梔窩

上は水田天満宮にあった和泉守が蟄居した庵である山梔窩(サンシカ=くちなしのや=口なしに掛け謹慎を表したものか)を復元したもの。先の銅像の横にあります。6畳一間くらいの大きさでしょうか。小説家の海音寺潮五郎が昭和19年ころ水田村を尋ねたところこの庵はまだ現存していたそうです。

ところで蟄居謹慎とあれば他人との交際や通信は許されておりませんでしたが、和泉守の憂国の情抑え難くまたこの水田天満宮の宮司は和泉守の実弟でもあったのでかなり自由が利いたらしく兄弟縁者や以前より薫陶を受けた門弟などから諸国の情報は彼の耳へ入って参ります。またここで近隣の青少年に教育を行いこの庵は萩の松下村塾然たる体を呈しました。(もっとも吉田松陰が松下村塾を主催したのはそれより4年後でありますが)しかしながら和泉守がここに蟄居することじつに10年余の永きに渡ります。
その間、泰平であった日本は激動の時代を迎えておりました。
嘉永6年(1853年)浦賀に黒船現る。翌7年(安政1年)日米和親条約締結。安政5年日米通商条約締結・安政の大獄。安政7年(万延1年)桜田門外の変。
・・・・
蟄居して6年目46歳のとき、幕府により日米通商条約が朝廷の勅許の出ないまま締結された(違勅)ことに憤慨して書き上げたのが『大夢記』であります。
概略「外交政策を誤った幕府を問責するために天皇は幕府追及の軍を起こすことを図られ、有志大名に密使を派遣し京都参集後御親征による討幕の勅諚を下さる。大名の軍編成定まれるや伊勢神宮へ報告後熱田神宮で草薙の剣を奉じ東海道を進軍。箱根権現を行在所にして江戸の大老・老中等重役を呼び寄せ責任を問い切腹させる。別の一軍は江戸へ入り人民を安寧させたうえで将軍を江戸城から退散させ駿府へ押し込み一大名へと落とす。江戸城には親王を入れ改革が成ったことを万民に詔勅さる。その後東北地方を巡幸し帰投して大阪で輦(れん)を止められここに新政府が打ち立てられたのであった。」という書物でありますが後日の大和行幸の企てを髣髴とさせる内容であります。
 
久留米にその人あり――蟄居中ではありますが和泉守の高名は九州内外の草莽の志士たちに知れ渡っておりました。そんな折、宮部鼎蔵等とならんで肥後勤王党の有力者の一人松村大成が大いにその人物像を推奨する和泉守に会わんと平野国臣が水田を訪れます。

平野国臣、筑前福岡藩浪人で福岡藩勤王家の魁。漢学・国学に親しみ古の制を尊ぶ尚古主義から月代を剃らず総髪にし笛に堪能で短歌も嗜む風雅人。
彼は梅田雲浜や西郷隆盛と出会った頃より活発に尊攘活動を初め、薩摩の北条右門から安政の大獄で手配中の勤王僧月照を薩摩に送り届けるよう頼まれ苦難の末薩摩に入ったものの藩当局から月照を引き渡すよう迫られた西郷が進退窮まり月照とともに錦江湾で身投げしてしまいます。その折同道していた平野は二人を助けますが西郷は蘇生するも月照は水死。薩摩藩は西郷も溺死したことにして奄美大島に蟄居させます。平野は事件後薩摩を追放され筑前に戻りますがしばらくのち、直接計画に関与はしてはいませんでしたが井伊大老の暗殺を予言しその後の藩の対策を建白した平野に対し幕府の追及を恐れた福岡藩は捕縛令を出します。逃走した平野が肥後玉名に潜伏中のことでありました。

さて和泉守は謹慎中のこととて平野に会おうとはしません。そこで平野は一首歌を詠んで和泉守に差し出しました。・・・

これより二人は肝胆相照らし時局に関して大いに語り合うのですが、この後の顛末はまた次回のお楽しみということで――。

(うう、酒毒で脳味噌が半減しておるのにこがん話を膨らませたものだから、この先どげんして落ちをつけたらいいもんか・・乞う!御期待。)
                           亭主敬白

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| けんおじ | みのるの古文書談義 | 11:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ふるさとのお社(2)
ふるさとのお社(2)
 〜水天宮 

早いものでもう2月ですね。巷間悪い風邪が流行っていますが、みなさんお元気ですか?
 (けんおじ注:みのる2009年2月の脱稿です。)
正月は過ぎましたが今年も健康第一で参りましょうね。
さて第2回目は水天宮であります。もちろん瀬下町にあります総本宮水天宮のことであります。
水天宮1

明治通りを真っすぐ西へ。鹿児島本線の高架をくぐって三叉路(元ここにも大鳥居がありました)をまっすぐ行くと筑後川にぶつかります。頭を右にめぐらせばこの鳥居であります。
水天宮2
 
5月ともなればこの参道にびっしり露店が並びますね。
水天宮3

池をまたぐ太鼓橋を渡って立派な唐破風門をくぐるといよいよ本殿であります。
御祭神は天之御中主神(あめのみなかのぬしのかみ)、安徳天皇、二位の尼(平清盛室時子)、高倉平中宮(たかくらのたいらのちゅうぐう建礼門院徳子)であります。壇ノ浦から落ちてきた建礼門院に仕えていた女官伊勢なるものが筑後川のほとりに祀ったのが水天宮の起源となったといいます。(本殿横には千代と名を改めた伊勢を祀った千代松神社があります)
 天之御中主神は日本神話の最初に登場する宇宙の根源的な神だそうであります。一説に拠れば、“水天”は字の通り仏教における12天のうち護法善神の水神ヴァルナにあたり、この神がもともとはインド・イランあたりの始原神であったことから明治政府による神仏分離令により記紀神話の根源神であるところの天之御中主神に置き換わったといいます。
 
ところで水を司る水天は申し上げましたように12天の中に数えられる天人(=神)でありますが、ここが仏教の深遠なところで、天とはいえ6道のひとつの界でありますから天人も当然有限の寿命というものがあって、忉利天(とうりてん)に住まわれる水天もその寿命は人間の時間で3600万年ということになっており従って天とはいっても苦界でもあるのです。6道についてはまた後ほど・・。
それはそうとして水天は、日本の八百万の神のうち水を司る豊穣神の水分神(みくまりのかみ)と習合しました。つまり奈良時代くらいから始まって明治政初年まで広く行われてきた日本の神様と仏教の仏神との融合・調和で、要するに同じ神が日本と外来で姿を変えたものとする考え方から水天=水分神となり、水分神の読みがミクマリノカミ。ミクマリがなまってミコモリ。みこもり=みごもり&御子守ということから水分神=水天は安産の神、子供の守り神となりました。本来どちらの神様も子供とは関係なかったそうですが、こういう風にシャレで神様を身近に感じるセンスは日本人のいいところですね。融通無碍というかアバウトというか大らかというか・・・でもホントかしらね。

現在の社地は1650年、高良大社の大鳥居と同じく有馬第2代忠頼公の寄進によるもので18世紀後半より安徳天皇を抱いた二位の尼、建礼門院、平知盛(とももり)を祭るようになったそうです。それ以前の水天宮の前身のお社はいつの頃からか巫女が仕える尼御前(あまごぜ)社と呼ばれていたもので尼御前大明神、荒五郎大明神、安坊大明神の千歳川(筑後川)の水神3柱をお祭りしていたそうな。
水天宮の縁起としてそもそもどうなんでしょう?土着の水神信仰が九州に多い平家伝説に結びついたものか、あるいは尼御前社という名前からまさしくその通りの由来であったか・・・?
そうであれば、尼御前=二位の尼は納得できますね。壇ノ浦で平家の滅亡を見届けつつ孫に当たる8歳の安徳天皇を抱き「波の下にも都の候ぞ」という言葉を残して入水した清盛の奥さんであります。
また安坊も、古来より安徳天皇女帝説が流布していたことから例えば歌舞伎『義経千本桜』では壇ノ浦を知盛とともに落ちのび“お安”とよばれる女児と設定されていることなどお安=安坊で腑に落ちます。まあ幼少の天皇を安坊と擬制するのも畏れ多いことですが当時は源氏による平氏狩りは苛烈を極めておりましたし。
荒五郎についてはちっと謎。知盛は清盛の四男であり五郎となれば五男の重衡(しげひら)を指すでしょう。ここがちょっと引っかかりますね。

平家の公達でイケメン度ナンバーワンを争うのがこの知盛と重衡であります。あとヤングの敦盛ね。敦盛は笛の名手で知盛、重衡の従兄弟に当たります。一の谷の合戦で熊谷直実に討ち取られますが時に16歳。平家物語では世の無常を悟った直実はこれより出家いたし法然の弟子となります。織田信長の「人間五十年〜、下天のうちをくらぶれば〜」で有名な幸若舞『敦盛』で世に知られております。前にも書きましたね。  『世に青葉残して二八の花は散り』(柳多留から・・青葉は笛の名) 『黒谷に坂東声の僧独り』(同・・黒谷は法然の在所。私ごとですが京都黒谷北の真如堂の紅葉は人が少なく雰囲気がとてもようございました)
重衡は、南都(奈良)の寺院勢力との戦いで配下の浅慮から興福寺、東大寺を灰燼に帰せしめ就中東大寺大仏が焼け落ちたことは平家の評判を著しく損ないまた南都の宗徒から大そう憎まれました。のち一の谷の合戦で源氏に捕らわれ鎌倉へ送られ、平家滅亡ののちに南都側へ引き渡され斬首のうえ仏敵の大悪人として首を晒されました。時に28歳。こちらも教養も高く容姿は牡丹のようであったと伝えられております。平家物語では源氏方の女性との交感や壇ノ浦を生き延びた妻との別れなどを織り交ぜ、坂東武者の野卑な東えびす振りと好対照に描かれております。それはともかく大仏を焼き落とすほどであったなら“荒”五郎と言えなくもありませんが水神としてお祭りするならやはり知盛のほうでしょう。
その知盛ですが、このナイスガイの死に際はまことにカッコいいですね。兄の総帥宗盛の消極性により平氏の勢力が日に日に後退していくなか度々積極策を建言するのですが悉く退けられる。とうとう壇ノ浦で平家の敗北が確実となるや天皇の御座舟を手ずから掃き清め、「見るべきほどのものは見つ」と言って浮かび上がってこないように鎧を2枚重ねに着て入水します。見るべきほどのもの―とは、最後の戦での平家一門の滅亡か、はたまた栄耀栄華の頂点から奈落の底へと足早に駆け抜けたおのれの人生か、ともあれまことに潔い死に方でありました。

さて建礼門院徳子であります。
高倉天皇の中宮にして安徳天皇の生母であり清盛と二位の尼(平時子)の娘。知盛の妹であります。本来は皇太后徳子でありますが、高倉上皇薨去後なんとまあ舅の後白河法皇の後宮へ入れられそうになった折これを拒否して出家。以後建礼門院と呼ばれます。
1185年旧暦3月24日午後5時壇ノ浦の戦いは平家方の惨敗で幕を下しました。赤間関(下関)の海は血と平家方の幟(旗)で真っ赤に染まりました。ちなみに平氏の幟は赤。紋は揚羽蝶。源氏方は白で紋はなんと笹竜胆(ささりんどう)!であったそうな。平氏方の兵士はあるいは討たれあるいは入水しカニと化し、生き延びた女官はあわれ遊女となりました。
で、建礼門院ですが、二位の尼が皇室の三種の神器のうち神璽(しんじ=八坂瓊勾玉やさかにのまがたま)の入った小箱を脇に挟み神剣(天叢雲剣あめのむらくものつるぎ=草薙剣)を腰にさし安徳天皇を抱いて入水したのち、御ふところに石や硯を詰め込んで後を追いますがお召し物の浮力のため海面に漂っているところを源氏方の渡辺某に御髪をクマデに引っ掛けられて助け上げられました。「あなあさまし。あれは女院にてわたらせ給ふぞ。」こうして彼女は蘇生し義経の元へと。
それにしても二位の尼は天晴れなお母様でありますな。入水時の御年はたぶん59歳。どうやら娘の徳子をいまひとつ信用してなかったようですが。
三種の神器のうち八咫(やた)鏡はすでに源氏方に取り返されて御所にあり神璽も箱が浮き上がって戻りましたが神剣だけはその後の懸命の捜索にもかかわらず赤間関に沈んだままということになっておるそうな。現在では鏡は伊勢神宮にご神体として、剣は熱田神宮に同じく、神璽は皇居に安置されているそうであります。よくわからんけど。
ご存知のように建礼門院はその後大原に庵を結び安徳天皇はじめ平家一門の菩提を弔うわけですが『平家物語』の終わりの別巻もしくは後世の加筆とも思われる「灌頂巻(かんちょうのまき)」では大原に隠棲している彼女の元へ後白河法皇が尋ねてくる「大原御幸」の場面があります。ここで彼女は法皇の問いかけに6道を生きながら経巡ったと答えるのであります。
帝の后と成りわが子が次の帝となった(天道)。一門の都落ちで愛別離苦をつぶさに味わった(人間道)。長い船上生活で水や食べ物に事欠いた(餓鬼道)。源氏との戦さの明け暮れであった(修羅道)。戦さに負けて子は親を親は子を夫は妻を妻は夫を失くした(地極道)。
畜生道については「龍畜経」云々の話がありますがよくわかりませんし、もっと別の話がありそうですね・・近親相姦とか義経との一件とか・・いまいちはっきりしませんが当然酷い目にあったのでしょう。
ともかくも1191年頼朝が鎌倉幕府を開く1年前に先述の重衡妻藤原輔子と藤原信西娘阿波内侍(どちらも夫や父を惨殺されている)に看取られながら彼女は36歳の波乱の生涯を閉じました。(平家物語に拠る)
そして『平家物語』も巻を閉じるのであります。

というわけで今回はおしまいであります。少々長すぎた?
まだまだ熱血怒涛の真木和泉守編が控えております。次回の水天宮△鬚楽しみに。
                       亭主敬白

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| けんおじ | みのるの古文書談義 | 12:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ふるさとのお社(1)
そろそろ「ミーシャンのよんでみ亭」をアップしようと思っていましたが、ネタもとの”書棚”が暫く閉鎖されることになってしまいました。
アチャ!こりゃ大変!!!
皆様にはご迷惑をおかけしますが、しばらくのご辛抱をお願いします。
そこで急遽、次のシリーズをアップすることにしました。
ミーシャンこと「みのる」の古文書談義−ふるさとのお社−です。
お付き合いの程、よろしくお願いいたします。

桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜桜

〜高良大社〜 

新年明けましておめでとうございます。
 ※けんおじ注:みのる2009年1月11日の脱稿です。

昨年は大変おつかれさまでした。
あまりに激動の一年でありました。

さて今回より新シリーズであります。われらが故郷久留米近辺の神社をご紹介していこうというものです。
今回久しぶりに高良山に行ってきましたが、いやはやなつかしかったですね〜。ですのでたぶん皆さんにも喜んでいただける、と勝手に思い込んででっち上げた安易な企画ではありますが、ことは日本の神様に関する事ですから誠心誠意書かせていただく所存であります。ただし、気力・能力の関係で中途で頓挫したらゴメンね。
高良山01

では第1回目は高良大社であります。

御井町バス停でバスを降りるとすぐ目の前に大鳥居がありますね。1655年に2代藩主有馬忠頼公の寄進によるもので国の重要文化財に指定されております。大鳥居をくぐって池にかかった石橋を渡りあとの話にも出てくる高樹神社を左に見て歩くといよいよ第2の鳥居です。
高良山02

ここからはご存知の山道の参道。もう着くやろもう着くやろと思いつつ登って行くこと30分。息も切れ切れのその時忽然と視界に広がる駐車場。おもむろに横切って行くとこれも泣かせる第3の鳥居の先は見上げるような階段でありました。
高良山03

久しぶりに登った130段の階段はややメタ中年には応えました。やっぱりね。
 で、社殿であります。
高良山04

社殿は、これも有馬の殿様が寄進した本殿・弊殿・拝殿を合わせ九州最大の神社建築とか。こちらも国の重要文化財であります。
927年に編纂された延喜式神名帳(じんみょうちょう)には高良玉垂命神社と記されとくに霊験あらたかな名神大社に認定されております。また筑後の(国の)一の宮ということで筑後地方の一番由緒のあるお社ということになっております。(一の宮という制度自体は文献資料的には不詳だそうですが)
 祭神は正殿に高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)。
 左殿に八幡大神(はちまんおおかみ)。右殿は住吉大神(すみよしおおかみ)の三柱であります。

八幡神は豊後(大分県)の宇佐神宮から勧請したのでしょうか。創建は高良大社のほうが100年ほど早いようですが(1600年前と伝わっております)。
宇佐神宮といえば、全国八万社の神社のうち最もその数が多いといわれる二万五千社に及ぶ八幡社の総本宮であります。鬱蒼とした森の中、古色蒼然たる七万坪の境内は森閑としてしめやかな雰囲気がいかにも神域という感じがしてオススメの神社です。まだ行かれてないならお近くですし是非お参りください。
八幡大神とは仲哀天皇と神功皇后の御子である応神天皇のことで、国家鎮護の神でありまたのちに石清水八幡宮や鶴岡八幡宮に勧請され武士に尊崇された武神でもあります。
また宇佐八幡といえば神宣であります。例の道鏡事件ですね。天皇家以外の人臣による天皇位の簒奪を八幡神の託宣が許さなかったというあれです。天皇位の簒奪未遂といえば道鏡も含め歴史上3例ありました。足利義満が即位寸前で死んで失敗したのと、もうひとりは織田信長でありました。この話は非常に面白いけどまた別の機会にしましょうか。
一方、住吉神は海の神であります。正式の御名を底筒男命・中筒男命・表筒男命(そこつつのおのみこと・なか〜・うわ〜)といわれる筒男3神であります。イザナギが黄泉の国から戻って禊をした時にわたつみ(海神=綿津見)の神と共に生まれた神様であります。この住吉神が活躍したのが神功皇后の三韓征伐(いまどきは言わないのかしら?わたしら歴史でこう習ったけど)の時でありました。皇后のボディガードとして、また水先案内人として三韓征伐に貢献したのでした。
大阪に住吉大社がありますが、私らには福岡市博多区にある住吉神社のほうが馴染みがありますね。なんと全国に二千百余社ある住吉社のうちもっとも多いのが福岡県で百九十二社あるそうです。なぜ福岡にはこんなに住吉社が多いのか?じつは前述の海の神わたつみ神は安曇系の神でありますが、安曇一族の発祥の地は志賀島(志賀海神社)であります。ということは朝鮮半島から渡来してきたと思われ、大和の侵攻以前北九州にその勢力は根を張っていた。が、大和は巧妙にその神々を取り込むことで九州を平定していった。つまり安曇社が住吉社に取って代わられていったという憶測が成り立つわけです。

さて主祭神の玉垂命のことであります。
古来玉垂命とは一体何ものなのか?という論争が続いてきたそうです。わたくし全然存じませんでしたけど・・・。
一応伝説的な人物である武内宿禰(たけうちのすくね)であるということになってはいます。またしても神宮皇后の三韓征伐が絡んでくるのですが、神宮皇后に同行した武内宿禰が海を渡る折に玉を海に投げ入れ潮を新羅に向けさせて船団をなんなく運ばせたのを見た新羅の王はその神威に畏怖し戦わずして降伏した、と記紀にあることから玉垂命と名付けられたという伝承であります。
ですが玉垂宮が400年ころの創建であるにもかかわらず玉垂命という御名は日本書紀(720年成立)や古事紀(712年)には一切現れず、818年の『日本記略』という文献に初めて見えることから、そもそもがどうやら玉垂命は大和とは別系統の神ではなかったかとの推測のほうが説得力ありますね。
すなわち527年に磐井の乱が起こるほど九州のこの筑紫の地には大和に対抗しうるほどの大きな勢力が連綿とあった。とするならばそれ以前地政学的に有利なこの高良山に君臨する有力な氏族がいたと考えるのが自然でありましょう。 が、結局は大和に取り込められやがて北九州の神々は神宮皇后の三韓征伐の成功に貢献させられそのことが記紀に記されて後世に伝えられていくわけであります。
ああまたしても大和のやり方でありました。

でありますが、こんな伝承もあるんですね。
すなわち、かつて高良山には高木の神が鎮座されていたのだがある時玉垂の神が山頂に一夜の宿を借りに来た。高木の神は気持ちよく貸したが玉垂の神はその夜のうちに結界を張って鎮座してしまった、とまさに軒を貸して母屋を取られるという話。
現在高良山の麓にある高樹神社の祭神が高木神=高牟礼神であります。

つまりは神代の昔から勢力交代は世の常、という一席でありました。
ではまた次回。
                         亭主敬白


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